半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『近畿地方のある場所について』

ちょっと前に変な家を読み、
halfboileddoc.hatenablog.com

その続編としての「変な絵」を紹介されたので読んだわけだが、そのついでで、「変な家2」も読んだ。

「変な絵」「変な家2」も、まあミステリーの連作短編といいますか、
一つ一つのピースを集めてゆくと、なんか空恐ろしいストーリーが浮かび上がる、みたいな趣向になっていて、
まあ「怖い!」と思いながら読むわけだけれども、三つも同様なものを読んでいると、まあこの構造的なトリックの配置であるとか、作り方が見えてくるので、だんだん怖さも低減してゆくわけではある。

で、こんだけこういうのを選んで読んでいたら、アマゾンが「お前これ好きやろ」みたいな感じでこれを薦めてきたわけだ。
読んでみたけれども、これが一番わけわからない怖さがある。
いややなあ。怖いのきらい。

でも、こういう怖さを味わうための小説って、「機能性食品」みたいなもので怖さをダイレクトに摂取するためにあるわけで、
物語としてのドラマツルギーに欠けるよなー、みたいなことを言いたい。
だって怖いから。

 もうほんと呪いの話とかやめてほしいわ。

リアルな恐怖 認知症漫画 吉田美紀子『48歳で認知症になった母』『消えていく家族の顔』

認知症関係の漫画。作者はヘルパーさんとかしていて、認知症の方と接している経験の豊富な方。
経験豊富なだけに、認知症の描き方も、かなりリアルに思われた。
(同じように認知症の人と接する自分としては)。

認知症の人の視点で、認知症の人の行動を描く漫画。
認知症の人の異常行動、例えば、徘徊・取り繕い・激昂・便の不始末みたいな、介護者からみた「困った言動」も、認知症の人本人の視点からみると、ある程度理解ができたりする。
家族の顔がわからなくなる、あれやろうと思って家を出るが、「何やるんだっけ?」と思う。
家もどこだっけ?と帰れなくなる。
認知症の人の徘徊って、その本人なりに理由があって起こるというのは知られているけど、その対応はそれはそれで難しかったりもする。
でも、認知症のケアというと、それはもう本当にうんざりするようなことがとても多くて、特に肉親を介護する場合は、つらくて、みじめで、恥ずかしくて情けなくて。
そういう感情のひだを、反対側の心情を丁寧に描くことで、わりと万人に認知症のありよう、を理解してもらう補助線としてはよいのではないかと思う。全員これ読んだらいいわ。

同時に、正直にいうと、認知症になることの怖さ、もたっぷり味わえる。


こちらは介護保険などの制度がまだない時代、まだ「認知症」という言葉もなく「痴呆症」の時代。
実母が、48歳で重度のアルツハイマーになった人の体験談。
こちらは、あくまで認知症本人の視点ではなく、その子供の視点で、認知症のありようが無残にも描かれる。

なんの制度もなく、周りの理解もない時代に、若い認知症の人をケアしなきゃいけない環境は、端的にいっても地獄のようだったに違いない。早発性アルツハイマーなんて、生活習慣関係ないし原因なんて今だによくわかっていないわけで。
結果的にはヤングケアラーのようにならざるもえないし、その後精神病院に入院し、亡くなるまでは一旦は介護から免れていたが、
そのことが本人の心に大きな傷を残してしまったことも含めて、誰が悪いわけでもないが、とにかくしんどい話。

本人はその時の深い傷を昇華すべく、介護畑にすすみ、ケアマネージャーとなって、認知症の方や家族へのサポートをしている、というのが、幾分救われた。が、これも、その時の壮絶な体験に囚われている、と言えなくもないわけで、いやはや大変な経験だと思う。

『三陸海岸大津波』吉村昭

これは東日本大震災とかより前、昭和35年に、三陸海岸津波が起こった際に書かれた本。

明治29年昭和8年、そして昭和35年。青森・岩手・宮城の三県にわたる三陸沿岸は三たび大津波に襲われ、人々に悲劇をもたらした。
津波はどのようにやってきたか、生死を分けたのは何だったのか――前兆、被害、救援の様子を体験者の貴重な証言をもとに、巨大津波の恐ろしさを再現した震撼の書。
この歴史から学ぶものは多い。

東日本大震災が、ある種の「答え合わせ」になってしまっているのだが、昔から地震に伴う津波はあった。
罹災後も、前近代〜近代は罹災者に対する補償とか避難民対策も大したものはなく「自己責任」であり、生活は悲惨きわまりないようだ。それを考えると、現代は、災害そのものは変わらないけど、その後の対策についてはまあ、進歩しているよなあとは思った。
ま、原発とか、昔はなかったものもあるわけだけど。

吉村昭は、さらりと資料をまとめてさらりと書き上げており、まあ実録ものとしてはニュートラルな印象。

『ローマ帝国の崩壊〜文明が終わるということ』

ローマ帝国。古代の文明で、共和政・帝政と移行したあと黄金時代から混迷の時代を経て、崩壊する。
ローマ帝国の崩壊のあとはおよそ1000年の「暗黒の中世」を経て、ルネッサンス期・産業革命を経て近代に入るまではヨーロッパは文明崩壊後の苦難の時代を生きなければならなかった… というのが、一般的な歴史理解。

しかし戦後、ローマ帝国の崩壊→暗黒の中世という図式はちょっと一面的にすぎるのではないか、古代末期時代は、政治・行政・経済面を中心に論じればそうかもしれないが、宗教・社会・文化などのソフトの面ではむしろ進化・発展し、独自の価値を持つ画期的な時代だったんだ。ローマ時代は蛮族の侵入によって文明社会が崩壊したわけではなく、緩やかな共存の時代のなかで支配権が移譲されたんだよ、という新説が、欧米では現在主流になっているらしい。(1970年代よりピータ・ブラウンによる学説)

でね、この本は、でもこの新しい歴史理解って、やっぱり違うんじゃない?
やっぱり侵略者達は繰り返す侵略・略奪・殺人で、文明を荒廃させたし、
ローマ時代と古代末期といわれる西ローマ帝国滅亡後は、人々の栄養状態・生活水準・建築物・識字率なども先史時代の状態なみに陥っていたらしい。それはやっぱりハッピーな状態とは言えないし、やっぱり「文明の終わり」だと思います…という反論の本。

最近の欧米のローマ末期時代の学問のトレンドを知らなかったから「へーそうなんか」と思った。という話。
その意味では、この本は「二周目」の話なんだよな。

でこういう学説のトレンドって、結局今ヘゲモニーをもっているアングロサクソンにある程度「配慮」された史観というわけらしい。
確かにアングロサクソンからすると「高度な文明を誇っていたローマ文明」を滅ぼした蛮族という自らの出自は確かに耐えられないのかもしれない。ローマ末期が蛮族による簒奪ではなく禅譲だ、という風に思いたいんだろう。

現在のEUの中心地、ストラスブール・フランクフルト・ブリュッセルを結んだ三角形は8〜9世紀のフランク族の帝国の中心は厳密に一致しているわけで、まあアジアだろうが、ヨーロッパだろうが、結局現代の政治的なスタンスから過去の歴史を毀誉褒貶してゆくんだな、ということで、わりと世界中、頭いい悪いはともかく、くだらねえな話だな、とは思う。

中世から近世に至るまで、ヨーロッパ人なんて野蛮国もいいとこじゃねえか。宗教改革とかカソリックプロテスタントの争いなんて結構近年の話で、まあ残虐極まりないし、第二次世界大戦だって。

還暦不行届

ずいぶん前に「監督不行届」も読んでいた。
halfboileddoc.hatenablog.com

もう20年近く後の、後日譚。監督も還暦を迎えた夫婦の生活やいかに……!

ということだが、この間のお二人の漫画家としてのキャリアや(2008年からうつなど(詳細不明)体調不良でほぼ休筆、2019年から再開)
庵野監督のシン・エヴァンゲリオンまでの経緯を考えると、
そんな激動の時代を経つつも二人の生活を温めているという事実にびっくり。

ロマンチック・ラブ、というのとも少し違うし、なんだか微温的な温度感での二人のやりとり、
どちらかというと完全に予測不能因子である庵野監督との生活。
安野モヨコ女史はどちらかというと、目から鼻に抜けフットワークの軽いキビキビしたタイプに思われるが、庵野監督との生活に関しては、不本意な事態にも心折れることなく、気長なことだなあと実に感心する。

とはいえ、「後ハッピーマニア」まとめ買いしたあとデジタル積読になっているので、ちょっと読んでみないとなあ。

小説じたてのお金の本『きみのお金は誰のため』『億男』

いかんいかん、ちょっと気を抜くとすぐ更新が途絶えてしまう。

きみのお金は誰のため

なんかのWebで紹介されていたので。
なぞの大富豪みたいなおじさんに導かれて、「お金のむこう」研究所に出入りする中学生の主人公。

  1. お金自体には価値がない
  2. お金で解決できる問題はない
  3. みんなでお金を貯めても意味がない

という謎めいた命題について問答を繰り返す、という。
まあ、一言でいうと、啓蒙的な教養小説という体裁の本。

確かに現代は、ここで述べられているような「お金の大前提」という基本をすっ飛ばして、お金の増やし方とかだけのテクニックを身につけるようなことが多いわけで、HowではなくWhatとかWhyというのを問うというのはやっぱり大事なことかしら、と思ったりもした。

富豪に出会う、的なモチーフの本は、他にも読んだことあったな。
halfboileddoc.hatenablog.com
だけど、これよりも根源的な話だったと思う。

読み味は悪くないものの、最後オチのような種明かしがあって、なあんだとは思ってしまった。
偶然ではなく必然なのか。

億男

こちらも、お金とは何か、みたいなものを考えさせる話。だいぶ前だが。
人気作家の川村元気さん。
こちらは、岡田斗司夫Youtubeから知って読んだクチだ。
youtu.be

ホリエモン

ホリエモンもお金に関する一連の本を出している。
halfboileddoc.hatenablog.com

逮捕される前の、巨額の富を築き、大きな会社をぶん回していた時代から、現在はお金にとらわれない(お金にとらわれずに生きるためにはそれなりにお金を稼ぐ能力が大前提にはなる)生活を謳歌している彼なりの人生哲学なんだとは思う。

自分のこと

私自身は、お金との向き合い方が、正直よくわからない。

そもそも、めちゃめちゃ頑張ってお金を貯めて、欲しいものを買う、という経験がないから、お金を稼ぐことに喜びがない。
むしろお金を稼ぐことで、不安は解消されるかもしれない。

親の育て方としては、欲望とお金がリンクしない家風だった。
本が読みたいといえば、買ってもらえたし、身の回りのものについては不自由はなかった。
しかし、親が眉をひそめるものを買うのは許されていなかったし、お小遣いをためて自由にものを買い、強烈に幸福を感じる経験は乏しい。

今では専門職を経て経営者になり、自分の手元にはそこそこお金がある状態にはなった。
けれども、奢侈品を買い漁ることもないし、予算ギリギリまで金を使う楽しさとは無縁だ。

お金はパワーだから、それが目減りするのは怖いことだ。
その反面、ガツガツと稼いで蓄財することも楽しいとは思わない。
預金が増えすぎると働く意欲が減るような気がする*1。不安が解消されればモチベーションは下がる。

多分この自分の感覚が変わらない限りは、今のサイズの企業体の経営しか僕にはできないんだと思う。

お金って難しい。
それは自分の人生のありようとも直結している話だから。
逆に言えば、人生のありよう、を抜いて「触媒としてのお金」だけを論ずることはそれほど難しくないのかもしれない。

*1:結論からいうと、そうでもなかった。けれども、そこに至るまでには数年の逡巡と葛藤がある

銀漢の賦

寛政期、西国の小藩である月ヶ瀬藩の郡方・日下部源五と、名家老と謳われ、幕閣にまで名声が届いている松浦将監。
幼なじみで、同じ剣術道場に通っていた二人は、ある出来事を境に、進む道が分かれ、絶縁状態となっていた。
二人の路が再び交差する時、運命が激しく動き出す。
第十四回松本清張賞受賞作。
解説・島内景二(国文学者・文芸評論家)

なんかで紹介されていたので読んだ。
藤沢周平のの海坂藩もののような、小藩の閉塞感、うだつのあがらないサラリーマン的な主人公、
若い頃の三人の男の友情。
そして剣客商売の秋山小兵衛的な、親子ほども歳の離れた(しかも親友の娘!)女性とのほのかな恋情。

もうまさにザ・時代小説。
時代小説界のHank MobleyTommy Flanaganか、といった感じである。とにかくよくできている。

ただまあ、定命である我々は無限に時間があるわけでもなく、池波正太郎とか山本周五郎とか藤沢周平的な小説がなんぼでもあっても、まあ困るよなあ…読まなあかん本なんぼでも増えちゃうじゃん、と思う。
このまえちらっと触れた新田次郎と違って、とてもドラマにしやすそうな着々としたプロッティングでした。
よくできてる。

自分も今年50歳になる。
何事かを成し得た人生、誰かに記憶されるべき人生ではなく、
なんとなく選択肢を選んでいく中でそれほど幸運でも不幸でもない人生に落ち着きつつあるわけで、こういう主人公のあり方は、悪い気はしないのだけれども。毎日を丁寧に生きるしかないよなあ。と改めて思う。