半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか

最近Podcastとか聴いているのである。なんせ山とかを延々長時間歩いていると音楽ばっかりだと飽きるから。
そんなPodcastのはみ出し話で取り上げられていたので読んでみた。

昔話として「キツネやタヌキに化かされた」みたいな話がよくある。
あれ、明治・大正とかで、山村での民俗学の聞き取りみたいなのでも、そういう逸話がなんぼでもあったそうだ。
山村で生きている人間にとっては、因果律がはっきりしない不思議なことを、狐狸の類と関連づけるわけであったが、そういう風潮が失われたのは、はっきり1965年あたりを境にしているらしい。

自然と人間との関係性や、人間の自我のあり方が、日本では1965年以前と以後で根本的にかわってしまったんじゃないか、ということらしい。

1960年代に起こった変化:電話の普及、テレビの普及、週刊誌の増加
口伝えの噂から、活字がベースになったのが大きいのか、それとも科学立国みたいな高度経済成長期のメンタルのあり方なのか…という話だった。
また、1950年代には焼け畑農業が終わり、拡大造林によりスギやヒノキのような商用の山林になり、山の動物の食糧にとっては打撃であったらしい(ニホンオオカミ消滅の時期は焼畑消滅の時期と同じ)。ゆえにキツネの側の事情も大きくかわったのかもしれないということである。

1965年以前の日本人の思想世界は、おそらく天台本覚思想といわれるような「山川草木、悉皆成仏」だった。
そういう精神世界では、人々は個人の人格の仕切りが曖昧で、自然ともっとつながった状態であった。石も土も岩も、木も草も虫も動物たちも、この自然の中で「おのずから」のままに生きているということ、そのこと自体の中に穢れなき清浄なものを感じ取る。こういう精神世界なら、人はキツネに化かされうるかもしれない。人は個人として生きているわけではなく、村という自然と人間の世界全体と結ばれた生命として誕生し、そのような生命として死を迎える。結びあい、共有された生命世界の中にいる。そういう文脈の中では、不可思議なことは「キツネが化かす」という受け止められ方もするのかもしれない。

そんな話。
講談社現代新書なので、さらっと書かれてはいるものの、最近山に分け入ることが増えた自分にとっては、割とすんなり得心のいく内容だった。おもしろいよ。
昔の村人は、人生の最晩年は「山に帰る」っていって、家族から離れて山の中の庵で過ごす、みたいなことが結構あったらしくて、まあそれって最後は孤独死するわけだけど、それはまんざらじゃない死に方だったらしい。

確かに結び合った世界の中に還っていく、というのは悪くないような気がする。