半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『老人力』

最近 NoteというWebサービスにジャズに関する記事をちまちまと書いているのですが、
ちょっと前にこういうのを書いたわけです。

note.com

で、以前に読んだことがある赤瀬川原平の「老人力」を再読してみた。

正直にいって、赤瀬川原平氏は他に優れた著作もいろいろあるけど、基本的には「着想の人」。
このタイトルの「老人力」という言葉を発明した功績は間違いないが、ではこの本が、そういう老人力について、堅牢に論じた本ではない。

トマソン」もそうだけど、この人は概念のラベリングの力がものすごい。
まあ、その辺は前衛芸術家としての「目」が確かだ、ということなんだろうと思う。


力を抜くというのは、力をつけるより難しい。
引き算
いいかげんさというのは老人力の中に含まれている一つの重要な要素

後半は、ほぼ日記調のエッセイになっているわけだが、そうですね、内田百閒の日記に通じる洒脱さがありますね。

『ルワンダ内戦』

少し前に、『ルワンダ中央銀行総裁日記』という古典的名著の感想を書いたが、
halfboileddoc.hatenablog.com

服部氏が赴任していたころから十数年後、ルワンダ内戦が起こる。
フツ族ツチ族の凄惨な殺し合いで、一説には100万人が殺されたとも言われている。

ja.wikipedia.org

これは、ルワンダ内戦について、紹介した小冊子。
しかし、実際のところ、内戦の内幕は、そこにいた当事者にしかわからない。

そういう意味では本田勝一の『カンボジア虐殺』は、概要を掴むのにはよかった。
しかし、アウシュビッツのような機械化された絶滅装置ではなく、鉈や農具のような日常の道具で、100万人が殺されたというのも、なかなかな生々しさだ。

ルワンダ中央銀行総裁の服部氏も、このツチ族フツ族の確執については日常的に接していただろうし、感じるところもあったとは思うが、日記の中では、敢えて言及はしていない。
まあ、国連から派遣されたテクノクラートとして、そういう人種間の確執について、ネガティブな言葉を発するべきではなかったんだとは思うが、その辺は当時の東洋人としての限界ではあったのだろうと思う。

ルワンダ中央銀行総裁日記」での孤軍奮闘は、事実でもあるし、個人の業績としては最上のものであろうとは思うが、同時に、のちのジェノサイドの種が、その時に着々と築かれていた…と思うと悲しくなる。
 ある時期、ある時点での個人の成功や失敗とはまた別で、世界は動いているんだなあということを忘れてはいけない。

『しょせん他人事ですから』

Twitterとかの漫画サイト紹介とかでちょっと面白そうだったので読んでみた。
上手な絵柄。ドラマ化とかもされそうなプロッティング。
そういうのを念頭において描いているんじゃないだろうか感はする。

一見やる気なさそうにみえて、しめるとこしめてる弁護士による快進撃。みたいな話。

この「仕事はできるけど、ちょっと斜に構えた業務姿勢」って、弁護士界のツンデレ
専門職の漫画やドラマに描かれるパターンの類型としては定番。このキャラクター造形のルーツって一体誰なんだろうな。
昼行灯タイプ、という意味では遠山の金さん?

隣人トラブルがSNSの誹謗中傷だったりするところは時代を感じさせる。
実際のところ、SNSトラブルとかは、ノウハウを知っている弁護士ばかりでもないだろうし、こういうハウトゥーは、むしろ弁護士の方こそ参考にしているのかもしれない。我々医者が「フラジャイル」とか読んで「ふーん」って思うように。

本編の内容が濃すぎて、主人公、助手の女の子の人物造形やエピソードなどはまだあまり語られない。
もし全8-10回のドラマ化を計画しているなら、三巻か四巻くらいで、弁護士サイドの過去が語られたりするんだろうなー、とは思う。

それにしても最近専門職漫画多いですね。

『印象派で「近代」を読む 光のモネから、ゴッホの闇へ』

近代絵画の話は、人間がいかに対象物を見ているのか、という根源的な問題の相克であったりするので、好きだ。
「神は細部に宿る」というが、視覚と現実の乖離を、二次元で表現することの問題は、哲学的な難問。
であるのに、アウトプットとしての成果物としての絵画は、わかりやすい。
いわゆるクラフトマンの技術論でそれが目に見える形で解決されるという、哲学的な深遠さと、成果物の明瞭さが面白いよね。

なんか、ジャズにおけるコード理論と、実際の成果物の音源との問題に似ているような気がする。

この本は、そういう七面倒臭い絵画論みたいな話じゃなくて、近代と印象派の風景素描、のような感じ。
当時のフランスの社会の世相と、そこで勃興し生まれた印象派の足取りを、わかりやすく活写したような本。

アトリエから、自然にでてゆくようになり、光の表現が多彩になったこと。
フランスの絵画界の変遷、社会における絵画の位置づけの変化。
ナポレオン三世と、セーヌ県知事オスマン男爵による都市計画によるパリの変貌
ブルジョワ階級、デュミ・モンディーヌ(半社交界人)女性の存在、黒い服の流行、バレエなどの当時の世俗の風習

印象派の時代は、なぜか日本人大好きなのであるが、これは、Rising Sun日本が、明治維新から列強になっていく日本の輝かしい時代であったから、なんだろうな。浮世絵などの日本文化に影響をうけているという親近感もあるだろうし。

『人の砂漠』沢木耕太郎

僕が留年して学年をすべりおりた同回で実習が一緒だった綺麗な女子に借りたんだっけか。
沢木耕太郎の『深夜特急』はそんなのが経緯で読んだ。
僕自身は海外視点のない人間だったので(当時も今も)あまりピンと来ず読んだ。
それこそ「猿岩石」前夜というころ。
猿岩石がきっかけで、あの頃バックパッカーが再び流行するだなんて、思わなかったな。

単位に追われ、近視眼的な学生生活に追われていた自分達にとっては、別世界すぎた。
が、今思うと、その別世界感が憧憬につながったのかもしれない。
カゴの中の鳥が、抜けるような青空に対して憧れていたように。

深夜特急」は「学生の人生を狂わせ度」からいうと、なかなかのもんなんじゃないかと思う。
まあ狂わせたというか、新たな世界を開いてくれた、のかもしれないけど。

前置きが長くなった。
この本は沢木耕太郎の初期ルポルタージュ短編集。
変わった話を、克明に描写するノンフィクション。

う、うーん。
深夜特急」で、異国の街角向けられた視点を向けられると、こんな感じなのか。
ちょっとしんどいかもしれない。

冒頭の作品。老女が自宅で餓死。孤独死である。
その死の前後の「すさまじい」有様が描かれるのだが、いわゆる地域密着型の医療をしていると、類型は比較的頻繁にでくわすタイプ。
現実の方がすさまじくて、いささか鼻じらむ。

むかし「ゴミ屋敷のやばい住人」がワイドショーに「街の椿事」としてある種のネタとして取り上げられていた。
けど、実はゴミ屋敷は、独居の認知症の進行過程において、まずまずの頻度で出現する。
規模の大小はあれど、どの街にもゴミ屋敷・ゴミ部屋というのはあるわけで、
めったなことで報道されなくなってしまった。
私の担当患者だけでもゴミ屋敷の人、10人くらいは診ている(認知症外来でもないのに)。
高齢社会は、ありふれた現実が、一世代前の珍しい事件を完全に凌駕している時代。

SNSが発達した現在、市井からの「ちょっと変な話」は当たり前になり、淘汰されて質が上がった。
そういう淘汰のない時代、読み物に耐える物語を提供できるのはやはり作家の筆力なのだろう。

ただ、当時、日本の中の異世界性を際立たせる意味あいで書かれたルポ。今読み返すと、読み手の興味はその新奇さではなく、その当時の時代風景や世相である、というのは少し皮肉だ。

あの子は今何をしているんだろう。

『人間はどこまで耐えられるのか?』

これも随分前に読んだ本。出たのは2002年となんと20年前。
イギリスの生理学の教授の方が、一般向けに書いた本。

人間、いろんな環境で、どこまで耐えられるのか。
寒さ・暑さ、気圧、高度、無重力、はたまた、重力負荷。
また、転じて、人間どれくらいの速さで走れるのかなど、能動的な話。
「ザ・ガマン」(懐かしい…)みたいなことを真面目に考えました。という本。
最後は、極端な環境で生きられる生物の紹介、みたいな話。

寒さに関していうと「塹壕足炎」と、空腹で2-3時間歩いたあとに「体を温めるために」ウイスキーを数口すするのは危険。
というのを覚えておこう。

まあ、のんべんだらりと生きている自分にとって、人間の限界なんて、知りたくもない。
極限って、下手したら死ぬからね。
(経営者の先輩の中にはトライアスロンなんて極限に立ち向かう行為に浸淫する人もいるけど…)

そう言う意味では、

これを、人間についてやっているような気持ちになってくるね。

『タモリ学 タモリにとってタモリとは何か?』

ちょっと前に読んだこれ。
タモリさんについて書かれた本。

考えてみれば、なぜ日本国民は「タモリ」という人間をお茶の間のアイコンとして選んだんだろうか。
そこにはどういう集団意識が作用していたのだろうか?

本では、キーワード 「タモリにとってXXとは何か?」という形で章立てしてわかりやすくいろんな切り口でタモリさんを語る。
国民的なタレントとして、タモリのTV番組などについては所与のものとして、くだくだしく説明したりはしていない。
それゆえ、100年経ったらこの本はよくわからないように受け取られるかもしれない。

タモリはもともと気配りの人間
・様式は偽善(披露宴で奇行などの暴挙をはたらいたり)
 「ちゃんとしたことに対する嫌悪感があるのかもしれませんね」
 不自由になりたがっている人間が不安から逃れるための幻想・錯覚・自己喪失の場=排除すべきもの
・実存のゼロ地点
「人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安である」というキルケゴールの言葉を引用
タモリの家族に関するエピソードなどは、あまり知らなかった。タモリのお母さん:破天荒な人生。奥様は、タモリの人格形成に大きく貢献しているのかもしれない(子供のいない仲のよい夫婦として、村上春樹に共通点がある)

結局のところ、1980年〜1990年の価値観の相対化みたいな都市文化に、タモリという存在は絶妙にハマったような気がする。

2020年代の現在、そうした1980年代らしさは随分価値を失ってしまっているわけで、世間のタモリの消費の仕方もまた、ややデクレッシェンド気味といいますか、相対的に価値を減殺しているのかもしれない。

タモリ

ちょっと前に読んだこの本は、よりTVに消費されるタモリの記号的な意味について語っていたように思う。
しかし、この本をきっかけに著者の樋口氏の本にいくつか手が伸びた。
 
halfboileddoc.hatenablog.com