半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『一人称単数』村上春樹

一人称単数 (文春e-book)

一人称単数 (文春e-book)

でも今更こんなことを言うのはつらいのだが、結局のところ、彼女は僕の耳の奥にある特別な鈴を鳴らしてはくれなかった。

「ジャングル通信」でおなじみの村上春樹の新作は、ある程度「寝かせて」から読むことにしているのだけれど、これはすぐ読んだ。
Kindleにて。

(ジャングル通信については騎士団長殺しを参照)
halfboileddoc.hatenablog.com


なんというか、村上春樹も年老いたのだな、ということを痛感した。
男女の話などもあるけれども、もうそういうこともなくなった老荘の境地から、若い頃を振り返っているような感じで、生々しさ・瑞々しさは全くない描写。

村上春樹らしさが少なくなり、普通の文学作品っぽいように思った。
「たとえ」とかも少し落ち着いた、というか。
上手な静物画の素描のような断片。

しかし、短編ではシンクロ二ティなどを大事にしており、そういったテクニックについては往年感がある。

チャーリー・パーカー、プレイズ・ボサノヴァ」や「謝肉祭」は、村上流の、ほんとかうそかわからない(小説なので虚構なんだとは思うが、本当によくできた虚構!)話。カズオ・イシグロの「夜想曲集」を読み返したくなった。

「ヤクルト・スワローズ詩集」は、糸井重里との共著でもでてきた、若い頃の村上の幻の作品を下地にしている。全貌を公開しなかったのは、私の目から見ても、詩とも散文ともつかない未熟さが現在の村上視点での許容範囲を超えているのだろうと思う。
品川猿の告白」も東京奇譚集にあった「品川猿」の後日譚というか種明かしという体裁となっている。荒唐無稽な話でありながら、リアルに感じさせるのは、やはり村上春樹の長年の作家生活で培われた力量なんだろうね。

表題作でもある『一人称単数』は、昔ながらの村上節というか、デタッチメントを描いている。
ただ、主人公が若者であるのと、今の語り手である村上の年齢であると、読後感は全く変わってくる。
壮年期以降のデタッチメントには、なんというか軽々しく扱えない、べっとりとした切実さがある。

ファンサービスも忘れない相変わらずうまい村上だが、例えば今のティーネイジャーがこれを読んで、数多ある村上作品に踏み入れる
きっかけになるのだろうか?SNSでも「生まれて初めて村上春樹読んだけど、これどこがええんか全然わからん」という意見があった。
僕もそう思う。
若いころの回想や、以前の短編での伏線回収が、この作品の基調で、熱量の希薄さが、村上氏の年齢を感じさせるのかもしれない。

毛量と同じで、老いると熱量も梳くのかもしれない。