『スタッキング可能』を以前読んで印象的だった松田青子さん。
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これ、10年前かあ(つい最近かと思ったのだけれど…)
女らしさ」が、全部だるい。天使、小悪魔、お人形……「あなたの好きな少女」を演じる暇はない。好きに太って、痩せて、がははと笑い、グロテスクな自分も祝福する。一話読むたび心の曇りが磨かれる、シャーリイ・ジャクスン賞候補作「女が死ぬ」含む五十三の掌篇集。
一読すると、断片的な文章が散りばめられているだけのように思うが、全体を通してうっすらと何かが立ち上ってくる作品群。
役割と記号、言語化。
『スタッキング可能』でもそうだったが、われわれはこの世界で自分の役割を演じているのだよ、ということを無理やりにでも気付かされる。
現代人にとってはそれはある種の当たり前で、例えば会社と自宅で全く違うペルソナをつけかえ、サードプレイス(喫茶店かもしれないし行きつけのスナックかもしれない)に行けば、演じる記号を変えてその場にふさわしく振る舞う。
特に「働き方改革」で、勤務中の自分の人格とオフタイムの人格を交わらせなくなっている昨今ではなおさらだ。
* *
では、そういう「役割」を脱いだわれわれはなにか?
精神年齢としては29歳くらいの男でも女でもない「なにか」だったりする。
脳?
脳が記号を発しているだけなのかもしれない。*1
集団へのコミットメントとデタッチメントのバランス。
村上春樹はそうではない時代に、コミュニティの中でわれわれが振る舞う人格を越えた「自我」を意識的に描いた。
そのために世界的な共感をえることができた。
松田青子さんの描く世界は、もうちょっとその先をいっている気がする。
ぼんやりと、今の世の中がうっすらと身にまとう虚飾について、思いをはせる。
でも、これからどうなるんだろう。
なんとなくウクライナの戦争の後予想されるのはグローバリズムの退潮(国民国家の再形成)みたいな流れ。
一個人が複数のペルソナを使い分け、都市で活きてゆく時代、つまり「役割を演じる時代」は変化せざるを得ない気はする。
ちょっと敏感すぎるのかも?
こういうふうに拡大された自我が再びシンプルな状態にもどることはないと我々は思いがちだが、大正デモクラシーから10年も立たずに昭和の軍国主義に後戻りした前例はある。「不可侵」であると勝手に思っている自由は数年がかりでたやすく不自由な状態に陥ることはありうるのだ。
*1:昨今のLGBTQみたいな話は、結局われわれは肉体の壁を越えて脳で恋愛をしているわけで、そこにはいろんなパターンがありうる、というだけのような気がする