半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『学歴狂の詩』佐川恭一

ガリ勉で人間的な幅がない人間を罵倒するような言葉として、
『大人になっても「センター試験の点数」を自慢しているヤバい奴』みたいなのがある。

本来学歴はスタートであるべきで、ゴールではないはずだ。
ただ、その後の人生で語るべき事を為していない人間には、学歴や受験のエピソードしか自慢するタネがないわけだ。

ただ、その後の人生でなにがあっても受験でそれなりに努力をした人間には、学歴や受験体験は、それなりの重みを持った、人生のエピソード一であることは確かだ。

この本は、もと神童、高校から進学校に入学し、紆余曲折を経て、浪人して京大文学部に入学し、その後小説家になった方の、受験期のエピソード。
その周囲のキャラの濃い人物を紹介したお話。
『学歴狂の詩』というタイトルは、水島新司の『野球狂の詩』になぞらえたものだが『プロレスラースーパースター列伝』の方が構造としては近いのかもしれない。

境遇としては自分と重なることが多かったので、共感することも多かった。
特に男子校に関する言及には、深くうなづけるところであった。

あなたがそのセンサーを矯正せずに突っ走ることで成果を残し続けられる才気煥発な人間であるならそれもいいが、多くの場合はそうではない。周囲の多様性に晒されながらセンサーを調整し、より豊かな人間関係を築いていくことによってのみ、あなたの男子校病はゆっくりと寛解に向かっていくのだ。
私はこうした危険な病の伴いがちな男子進学校の存在が、本当に人間形成も含めた教育に有益なものなのか、かなり懐疑的な立場である。そしてさらに言えば、すべてを捨てなければ東大・京大に合格できないレベルの人間が、なりふり構わず東大・京大に合格した先で、本当に幸福な未来を手にすることができるのかどうかについても懐疑的である。その過程で捨てたものをもう一度拾い集める作業は困難をきわめる。何にしても捨てるのは簡単だが、それを再び得ようとすれば長い時間がかかるものなのだ。

私も、「もし生まれ変わることができるのであれば、男子校には行きたくない」といつも思っており、公言している。

わかりやすい勝ち組ではない(かといって負け組でもない)複雑さ、この人の書き物に深みを与えているように思う。
ただ、今は少子化。未曾有の大学全入時代にはこの時代のアンビバレントな複雑な感情は受け入れにくいものかもしれない。
そう、これはもう終わった物語ではあるのだ。
とはいえ、自分にとっては、その切々とした謂い、痛いほど心に届いてしまうのだ。

 窓際界のスーパースターメルヴィルの「バートルビー」今度読んでみようっと。

以下、備忘録。これらの言葉が刺さる人は、読んでみられたらいいと思う。
いい年して受験期のことを振り返るというのは、どちらかというとカッコ悪い行為ではあるのだが、受験に苦労した人間は、大なり小なりそういうカッコ悪さを持っているはずだから。

  • そう、進学校の生徒というのはケンカが強い代わりに筆記試験が強い、精神的ヤンキーなのである。そうした荒くれ者どもをまとめるには、それなりの剛腕が必要になってくる。その点、宮坂はヤンキーをまとめるための抜群の腕とカリスマ性を兼ね備えていたのだ。
  • 受験での負けを就活で取り戻す努力よりも、受験で勝つための努力の方が不確定要素が小さく、また効果も大きい。
  • ここまで読んでくださった方は気づいていると思うが、私は今回、MARCH関関同立よりも下の大学について話していない。なぜなら、私の参加した就活においてほぼ存在が確認できなかったからである。トップクラスの大企業の総合職というものに手を伸ばそうとするなら、おそらくギリギリの最低ラインがMARCH関関同立
  • 人間の持てる受験への意識、いわゆる「受験精神」は有限であり、圧倒的偏差値強者でないのなら、自分に甘くならない程度にその配分を考えることも重要である。
  • 最後にめちゃめちゃ俗な受験の話をつけ加えさせていただくと、片平だけでなく、私自身や他の友人知人を見る限り、京大ギリギリ落ちが同志社立命あたりに行くとなった場合、ほぼ闇落ちする。そこから復活した人間もいるのかもしれないが、はっきり言って何歳になっても完治は難しいという印象がある。