(帯に『ぜんぶ、言っちゃうね』とある)。
著者の生い立ちから研究者へ、そして研究者としてのキャリアをナラティブに語るという「これ晩年に偉い人が『回顧録』として出すやつちゃうの?日経新聞の『私の履歴書』?」という感じの本だった。
(しかも、ものすごく主観と客観のアンフェアさもなく読みやすい)。
歴史研究者としては一般に歴史学を理解してもらう際に、必ずでてくる「科学」としての歴史と、「ナラティブ」としての歴史の違いの問題についても当然述べられている。歴史を学問として行っている「正調」の側から。
「正調」の歴史学と、いわゆる一般的な「読み物」としての歴史は違う。
たとえば、陳寿によって書かれた正史『三国志』と、羅貫中による『三国志演義』の違いといいますか。
例えば、司馬遼太郎とかがわかりやすい例。まあフィクションだけど、小説の割に考証や調査は行われており、素人は「正調」の歴史がこれか思ったりもする。ま司馬遼太郎は小説の体裁を取るのでいいけど、梅原猛とか「逆説の日本史」井沢元彦などは、いわゆる「説明文」でくるので一見歴史学っぽくみえるけど、正調の学問としての歴史学のフィールドで戦っているわけではない。(オルタナ歴史学とでも呼ぼうか)
この本のおもしろいところは、そういう「正調」の歴史学の立場を、いわゆる「オルタナ歴史学」の人たちの強みと思われる「ナラティブ」な読みやすさで綴ったところだろうと思う。
* * *
日本史の歴史学の泰斗との交流、妻との出会いなど含めて、筆者の人生行路を、非常に読みやすい形で追体験させてくれる、面白い本だった。同時に、近年の日本歴史学の偉人たちの近くにいたことで、その人となりや研究のスタイルなどの長短にも触れていて、興味深かった。
本郷先生は自分の近くの人のいいところもよくないところも傷つけずに描写できるタイプの書き手で(名をなす研究者にありがちなエゴイスティックな感じが希薄)その意味では水道橋博士の『藝人春秋』に読み味が近かった。
正調の歴史学者も、そこに至るまではナラティブな「読み物としての歴史」に触れて、歴史に興味を持ち、憧れて学問の世界に入る。
研究の道に進み「きちんとした」研究の手法を身につけていくなかで、いわゆるナラティブな歴史のやり方ではない視点や考え方を身につけ、歴史学者になってゆく。
だから、研究者とはいえ「ナラティブな歴史」に対するロマンや憧れはないわけじゃない。
ナラティブな歴史にありがちな「推測」「論理の飛躍」も、完全には否定していないのも面白い。
(正調歴史学者の中でも、「ひらめき」とかがなく、古書に書かれたことを延々と開陳しているような研究はだめだと言及されている)
まあ、医者でもそうですよね。ブラック・ジャックやドクター・コトーに憧れて医者を目指すようになった人は少なくない。
けど、医学をきちんと身につけた上で、ブラック・ジャックのストーリーやありようを真似するようなら、それは狂人だし、学会で発表するに至らないデータを一般向けに垂れ流す医師の「うさんくささ」は同業ならよくわかる。
四人組「網野善彦・石井進・笠松宏至・勝俣鎮夫」のそれぞれのスタイルや人となりなどの話も興味深かった。
当然ながら梅原猛とか、井沢元彦の名前は一切でてこない。
しかし、やはり研究者のバックグラウンドによってその立論もかわってくるし、巷間の思想潮流(マルクス主義、唯物主義から、80年代の構造主義への変遷)による変化の影響も簡単に触れられていた。(網野史観にはすばらしいところもあるけど、一種の欺瞞もあるのではないか。支配者は、領民を搾取するだけではなく、庇護する役割もあったはずだし…みたいな話)
研究者としてのビルドゥングスロマンとしても読めるし、
歴史研究の考え方をナラティブに紹介しているし、
日本の歴史学者列伝としても面白い。
いろいろな意味で密度の濃い一冊ではあった。
欲を言えば、正調歴史学者が、オルタナ歴史学を存分にディスりまくるパートがあったらなあとは思ったが、
それは別の本で期待したいところ。