半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『A』 森達也

地下鉄サリン事件から半年。マスコミの熱狂的なオウム真理教報道が続いていた1995年。当時テレビディレクターであった森達也は、教団の広報部・荒木浩を被写体としたオウム真理教についてのドキュメンタリー番組の企画を立ち上げた……

以前は森達也の本はよく読んでいた。独身の頃。まだKindleもなかったころ。
僕がサブカルチャーどっぷりだった頃。

しかしいつしかそういう文化潮流からも遠ざかり、かといってサブカルから河岸を変えたわけでもなく、立ち枯れた。
中年によくある話。
TVは電源を入れて付いたチャンネルをそのまま適当に垂れ流し視聴をし、興味は音楽や限定されたコンテンツに限ってみている。コロナ禍でまとまった時間があって、少し頭の中の棚卸しのように、昔のコンテンツを取捨選択してまた見た入もしたけれども、しかし結局のところ40代・50代は、一つのジャンルに耽溺するほど熱意も時間もない。

久しぶりにアマゾン・プライムで動画コンテンツを渉猟した際、
当時森達也が言及していた「A」を観た。

当時の「A」は正義の名の下に群がるマスコミの異様さと、末端の善良(しかしどことなくおかしい)オウムの信者のズレ、言語化できないもやもやを、ドキュメントとしての価値だと言っていたように思う。
イデオロギー的な断罪よりも、人の世の中は複雑で、おもしろい。
そういう価値相対的な作品。

しかし現在から振り返って映像で感じることは、そういう価値相対性というテーゼのわかりにくさ。
まあ、オウムの居住施設も、映像でみる90年代の日本の街並みも、このドキュメントも、雑然としていてわかりにくい。
1990年代の日本の建物の古さと雑然とした感じ。今の視点でみると、気恥ずかしくさえあるわけだ。

教団の内部の雑然とした感じ。きちっとしていないから、清潔感がないし、はっきり言って、貧乏くさい。
今の世の中では、この雑然とした感じは受け入れられない気がした。

そして、今「映像をわかりやすくかみくだいてお届けする」という点においては格段の進歩を見せている現在、
このねっちょりとしたドキュメントのテンポ感は、そもそも受け入れられないよなあ…と感じた。

ハリウッドスタイルが世界に蔓延し、TEDのようなプレゼンテーションのコモディティ化する前は、
世界はこんなにわかりにくいものだったんだ。と思った。

もちろんそれには効用はあるだろう。
わかりにくいものを読み解く読解力は、その頃僕たちは持っていたかもしれない。
でも、じゃあその当時の僕らが頭がよかったか、というと、そうでもないわけで。

* * *

「A」では荒木浩広報部長にフォーカスが当てられる。
メガネをかけた温厚そうな青年荒木さん。
話が通じそうな知的な雰囲気。喧嘩などもしたことがないであろう、一見して好青年である。
そんな彼が、オウムの報道、内部の情報と外部からもたらされるオウムの闇の部分とのギャップに、否定し、たじろぎ、怒り、迷うさまが描かれる。なかなかきつい経験だろう。

普通のドラマだと、この荒木さんが葛藤の果てにオウムを抜けて、洗脳が解けるプロセスが描かれるのだろうが、
しかしこの荒木さん、足跡を見るに、オウム・アレフの要職にとどまり続けている。
結局この葛藤は彼の人生においては、ターニングポイントにはならなかったようで、なかなか人生のペーソスかもしれない。

自分も50手前になって思う。
20代・30代というのは人生経験も短い。素直すぎる。
純粋といえば聞こえがいいが、単純な法則で世界を説明できると勘違いするのである。
もうちょっと人生経験がみんなあれば、あんなことにはならなかったのかもしれないなあ、と思う。