半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

単行本>asin:4152087196

 二三年前に単行本で発売された時にも興味津々ではあったものの「家の本棚にでかい本が収まるのはイヤ」という極めて本末転倒的な理由でスルーしたのです。今日昼飯を食べに自宅の近くのショッピングセンターに立ち寄った際に、平積みされていたので飯の合間に読もうと思い購入。

 ……!
 あ〜 やってもうた!
 読み終わるまで 何も出来ない!
 ファーストキッチンの椅子で読了。

 うまいなぁ、カズオ・イシグロは。

 設定はSF的ですが、そういうSF的なガジェットは極力出さないように、丁寧に心理描写して、主人公たちの生活や回想が語られる。極めて普通の文学の体裁をとりつつも、でも話の根幹はやはりきわめてSFだなあと思いました。
 SF度は『夏への扉』『アルジャーノン』級。
 でも読後のDepressionぶりは、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア級。

 設定自体は突拍子もないけれども、確かに作者の言うとおり、登場人物達の苦悩は、我々が日々感じているものと程度の差こそあれ同質ではある。つまりは特殊なシチュエーションではあるものの、極めて普遍的な話である。

 この本の登場人物たちは、人生に選択肢がないという悲劇を背負っているわけですが、そもそも我々の「人生の選択」だって、幻想に過ぎない。
 我々の人生は、本当に自由な選択によって選び取られたものだろうか?
 自由な選択をしているようにみえるのは、自由に選択していると思いたいだけで。避けられない苦渋の運命を前にした場合、じたばたあがくのは、あまりにみじめだから、その「運命」を受け入れる理屈を自作するか、他人の理屈に乗っかる。

一言で簡便に説明すると『きけわだつみの声』の主張など、全編そうだよね。

 かくいう私なども、親の暗黙の期待にそって医者なんぞになってしまったわけですが、今振り返っても、親が自分を医者に仕立て上げるに至った数々の手練手管はなかなか狡猾で*1、ヘールシャムほどではないにしろ、自由な選択とからは高い塀で区切られているが、それ以外では実に文明的で快適な子供時代を過ごしたわけです。

 現在のメジャー科医師をとりまく環境が、学生の時にまるっきり予想できなかったわけではないんですけれども、結局流されてこういうところまできちまった。現在31歳で、もうすぐ介護人をやめるキャシーよりは、ましな状況だと思うけれども、高みの見物としゃれ込めるほどの安全地帯でもない。

 そういうことを思い出させる苦々しい小説でした。今まで読んだ、カズオ・イシグロは全部僕のココロのやらかい場所にずんずん来るので、油断がならない。

*1:おそらく能力的に無能であることを示すしか、このpathから逃れる道はなかったんだと思います