半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

pitchにまつわるお話

 最近の僕にとって、音程に悩むのは以前ほどではない。
 学生の頃、楽器を始めた当初はあまりピッチがよくなかった。だが、中学生・高校生、そして大学一年生くらいのピッチが本当に悪いころは、ピッチが悪いということもわからないレベルだったのだ。今思うと、とことんよくなかったのだ。
 大学二年生の時に、とんでもなく音楽的に優れた後輩が入ってきた。彼女はあきらかに自分よりピッチがよかったので、ピッチの悪さに自覚的にならざるを得ず、それが改善につながったような気がする。
 自分も含めて、ピッチの悪い人間が、自分のピッチの悪さを自覚していることは殆どない。逆に言うと、自分のピッチの悪さを自覚しながら、確信犯で音程の悪い音を出し続けることに、多くの人は耐えられないのである。

 ゆえに、自分の中のピッチの精度以上には、出音のピッチの精度は上げることはできない。これはある種当然のことだ。
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 トロンボーンは、音を離散的ではなく連続的に取り扱わざるを得ない楽器である。その点ではこの楽器はボーカルと本質的には同じだ。

従って、いわゆるジャズ語法の実地適応としては、例えばピアノ(これは離散的に音を扱う楽器の代表だ)が意識しない部分に自覚的である必要がある。 尤も、こういう側面はどの楽器でも同じで、ことさらトロンボーンに限った話ではない。たとえば、サックスなどでも、初学者の時は、いかに運指どおりに動かして、その音を出すかということで精一杯。正しいポジションで音をだせば必ず正しい音がでるなんて限らないということは想定範囲外。
 でも、サックスなども、結局音程は口で細かく合わせないと、正しい音は出ないということに、途中で気づく。
 こうした音程の悩みから完全に開放されているのはピアノやオルガンだけである。
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 ピッチが悪いといわれるけれども、よくわからない人は、あまり残響音が響かないところで(トイレとかが適当だ)ドレミファソラシドと口ずさんでみればいい。基準がない状態で、自分の感覚の中にあるIntervalを元に音階を歌うのは、結構難しいことである*1
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 しかし、あまりにもピッチに対して先鋭的にありすぎる場合、ジャズ語法の多義性を阻害してしまうのかなあと、最近思うようになった。
 オルタード、ホールトーンとか、コンディミは、コンテンポラリージャズでよく使われるメカニカルなフレーズなんですが、これは平均律が本来持っている歪みの中での対称性である。純粋な正五角形や正六角形が自然界にあっても、自然には見えないのと同様、対称的なものは、実のところ肌触りとしては不自然だ。響きの濁りをある程度許容しないとこれらのスケールは成立しないわけで、楽器の音の響きやメロディーの歌い方を純粋に追求していくと、純正律へ向かわざるをえないが、その場合、コンテンポラリーな語法そのものが立ち行かないのである。

 ジャズの小難しいスケールは、いわゆるダイアトニック・スケールにおけるピッチのよさとトレード・オフの関係にある。おそらくドレミファソラシドを完璧な純正律で弾くことに器楽能力を傾けた場合、オルタードスケールは弾けなくなる、はず。
 クラシック上がりの奏者の中にはその器楽能力の高さの割りにソロがダイアトニックから離れられない人がいるが、それはそういうことなのだろう。
 もちろんメシアンを始めとする現代音楽まで時代を下れば、クラシックだろうが関係ないだろうけれど。
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 話を個人のレベルに落とすが、ロンカーターである。
 ロンカーター、昔の僕は、単に「ピッチ悪いやつだな」と思っていた。びよんびよん曖昧なビートで曖昧な音を弾くので、どうもあまり凄みというのを感じなかったのです。でも、最近ロン・カーターを聴きなおしてみたのだが、実はロンカーターはピッチそんなに悪くないのである。ただ、いわゆる弦楽奏者的な「いい音」ではなくて、壁のような鈍さがある。
 たとえばペデルセンがロンと対照的で、ものすごく明快な音程でソロもウォーキングベースラインも奏でているわけだ。「トゥイーン」という感じの音で。それと比べると、ロン・カーターの音はつぶれているようにうつるし、「ブーン」という感じでなにしろ曖昧だ。
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 しかし重要なのは、そういう「ピッチのあいまいさ」こそがおそらくマイルスの求めるところだったんじゃないか。
 ペデルセンのピッチはよすぎるのである。良すぎて、ダイアトニック・トーンにしか聴こえない。やっていることの頭の中が透けすぎるピッチなのである。
 マイルスのいわゆる「ザ・クインテット」と呼ばれた時代は、各人の提供する音は緩やかな結合で結ばれていた。決して、一つのモード=イデオロギーに凝り固まることがなく、その場その場で実に「民主的に」ベースとなるモードが決定されては変化していた。この可塑性こそがモーダルインターチェンジの本質だと思うが、そういう演奏における自由さを担保したのがロン・カーターの音のAmbiguityだっのかもしれない、と最近の僕は思っている。

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 ともあれ、そんな歴史的な話においては、ピッチは相対的で深遠なものであるが。
 我々エンドユーザーが普段セッションなどで演奏する場合には、そういう深遠な話以前の問題で、単にピッチは「いいか悪いか」のレベルに帰結する。
 自分のピッチを狂ったバックグラウンドの中で構築することは、なかなか難しい。

 ピアノとベースの音程が狂っているようなセッションではピッチ感覚がよければよいほど演奏しづらいと思う。どこにあわせたらいいかわからない状態になるので、こういうときの僕はフレーズも、高音もあたらない。昔は自分の調子が悪いと思ってへこんでいたのだが、最近は、そういう状態でチューンしようとしても傷つくだけなので、傷つくことをやめている。

 静かに対談できるときは静かな対談をすればいいが、朝まで生テレビみたいに、お互いの話なんか全然聴いていないようなディスカッションの場では、同じようにわあわあ言う、別のテクニックがある、ということだ。

 ただ、いずれにせよ、トロンボーンの場合は口で合わせるわけで、チューニングスライドが多少狂っていても、目的の音は出せないといけない。
 現状ではチューニングスライドを押し込んでいても、一番低くしても、修正しながらまあまあ正しい音を出すことは可能。ただし、適切な位置で調整していない場合は、倍音が細って、音色も細くなり、また速いパッセージで音が当たらない。
 これはゴルフのスウィングのずれのようなもので、曲中で修正していくわけだが、まーそういう風に修正している時は、うまくピッチがとれてない時ですわな。

 チューニングをして、大体合うようになる、というのは中級者では当然のことだが、一番気持ちいい音で綺麗にチューニングするというのが、次に求められるスキルなのだろう。

 ちなみに、トロンボーンの場合は、楽器時代がこのようにピッチについて自覚的であることを要求される楽器だけあって、ピッチの感じ方はある程度演奏から推し量ることはできる。ピアノの平均律ベースでAny KeyのTransitionをむりなく行えているトロンボーンMicheal Davis、Conrad Herwig。逆にこの人達の音は、どこかで「トロンボーンの鳴りのよさ」を犠牲にしている感じがつきまとう。Bennie Greenとかはその真逆で、Any Keyで演奏なんて全然しないしできないが、トロンボーンにて行われるフレーズとしては非常に鳴りがよい。

*1:正しい「ミ」は、実際のところ、微妙だ。純正律的なミと平均律的なミがある。これはトロンボーンのスライドにしたら1cm程度は差があるように思う