- 作者: 宮下奈都
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2015/09/11
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紹介には『祝福に満ちた長編小説』とあった。
確かに、そうだった。
音楽にかけらも興味をもったことがない田舎の少年が、とある偶然か運命か、調律師を目指すようになる。ひとことで言うと、調律師のビルドゥングスロマン。
私もピアノというものに長年縁がなかったんだが、つい最近自宅にピアノが来たので、下手なりにピアノを弾くようになった。それまでは長年ジャズトロンボーンを吹いていた(今もである)。
トロンボーンというのは、まっすぐ正しい音を出す、というのがとにかく難しい。音程感覚がないと、正しい音は絶対に出ないのである。ドレミファソラシド、をまともに出せるようになるのに、年単位かかるのだ。
ピアノというのはそれと真逆の楽器で、鍵盤を押すと正しい音は出る。ドレミファソラシドを出すことは、簡単だ。
だからこそ、ピアノでは、その先、つまり何をどのように音を配列するか、それが難しい、と理解していた。
トロンボーンが単音楽器であるのに対し、ピアノでは同時に複数の音を出すことが要求される。
ただ数年前から持っていた電子ピアノから、生楽器のピアノに進出してみると、自分のそうした理解が全く浅薄であることに気付いた。指の沈め方で音色は全く千差万別であるし、その日の気温・湿度によっても、ピアノのフィーリングは全くかわってくる。もちろん、楽器ごとの個体差というのもすごくある。そんなことは触ってみるまで気づかなかった。
だから調律という作業は、狂っているものを直す、という単純なものではなく、とんでもなくクリエイティブなものなんだろう…ということも想像がつく。理想を言えば、到達点は無限のかなたにある。
この小説は、本来あまり主役にならない調律師の仕事のありようを、とても誠実に好意的に描いています。だから音楽にもピアノにも、もちろん調律にも興味がない人間にも、魅力を伝えることに成功していて、さすが本屋大賞と思いました。
ただ、美化しすぎかなあとは思いました。地方都市のなんでも調律する楽器店にそこまでの俊才があつまるかしら。地方都市の駅前ヤンキーの言う「世界征服」のような「閉じた世界」感が…
いや、でも。
私の妻は子供の頃からピアノを弾いているのだが(プロじゃないですよ)、たまたま自宅のピアノを調律しに来ていた方が、その後スタインウェイの認定調律師になってらっしゃって(すごい調律師ということなんですよ)県をまたいで、今うちのピアノの調律をしにわざわざ来てくれている。
僕のまわりにだって、そういうドラマはあるわけだから、この小説が、何も荒唐無稽というわけでもないかも。
ピアノという楽器は、ほかの楽器より、ちょっと熱量の桁が違う感じが確かにあります。ピアニストのいう「ピアノが好きです」という言葉は、結構な魂の底の底の方から発せられているし、ほかの楽器に比べて、人生狂わせられちゃう度合いも多いような気がする。
トロンボーンの場合は、自分の声を音にしている感じなので主体性はこっちにある。でも、ピアノって、自分の意志もあるけど、ピアノの中に何かが棲んでいて、それが音の半分を担っている感じがするのよね。
私、大人になって人生決まってからピアノ触ってますから、まだ多少の距離を置けますけど、確かにこの楽器、魅入られるやばさがあるんですよ。