半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『aikoの詩。』発売記念で、aiko歌詞の「あなた」「あたし」を数えてみた件について。

オススメ度 90点
いい子ちゃんってなんだよ度 100点

aikoの詩。(初回限定仕様盤 4CD+DVD)

aikoの詩。(初回限定仕様盤 4CD+DVD)

  • アーティスト:aiko
  • 発売日: 2019/06/05
  • メディア: CD

aikoのシングルおよびカップリング曲のベスト。
4枚組というとんでもないボリュームではあるが、ベストなので元手はかかっていないと。
その辺りを勘案してか、値段は安い。*1
あたし*2は当然限定版を買ったので、特典DVDなど、新奇なものはある。スタジオライブ映像。
ま、新たなaikoを楽しむというよりは、aiko総集編とでも呼ぶにふさわしい作品です。

シングル盤を網羅している超ディープなファンは決して多くはないはずだ。
あたしのようなうっすいファンにはありがたい。知らない曲も何曲もあったし。

* * *

ちなみにaikoはメンヘラに親和性が高いイメージがある。
それはなぜか。
basement-times.com
(こんな記事もありました。この記事に限らず、aikoファンにメンがヘラっている人は一定数いるように実感する。)

aikoの歌詞は「あたし」と「あなた」の没入性が著しく高い。
二人の世界。
というか、世界はまるで二人きりであるかのよう。
第三人称が少なく、あたしとあなたの二者間の関係性しかない。

口さがなくいってしまうと、aikoの歌詞世界は「社会性」が著しく乏しいのである。

  • 隣室のマンションの男が朝からうるさいわ〜注意したろか〜とか、
  • 職場の新人がさあ、入職三ヶ月で有給休暇付与1日もないのに休みたいってダダこねとんねん
  • 親戚の集まりにいったら、なんか、おばさんの、従兄弟、の嫁、みたいな人にえらい絡まれたけどなんなんあいつ!

みたいな、俗世の身すぎ世すぎとか、第三人称の濃厚な人間関係は一切でてこない。

世界は「あたし」と「あなた」だけ。
その心象風景はかなり壮絶だ。
セカイ系」ともマッチする世界観ともいえる。
でも、なんとなくイメージで思っているけど、本当にそうなの?

というわけで実際に計量してみた。

方法

  • aikoの詩。」に収載された56曲の歌詞カードの中から、登場人物を人称ごとに抽出した。
  • 「あたし」「あなた」「あたしあなた以外の第一・第二人称」に加え、第三人称もしくは第三人称に準じた人物と思われるフレーズをピックアップした。

結果1:aiko世界には第三人者はほとんど存在しない。

56曲中の歌詞中:
第一人称(圧倒的に「あたし」が多い)は206回
第二人称(「あなた」がほとんど)は303回登場しました。

三者と思われる人称(いい子ちゃん、優しい人、死ぬほど逢いたい人、友達、あの子)は計6回登場した*3


まとめ:第一人称が 40.0%、第二人称が58.8%、第三人称は1.2%の頻度で出現する。

まず、驚いたのは、一般的な第三人称である「彼」「彼女」が、そもそもなかったこと。
そして、第三人称的な単語も、出てくるにしても、本当に一瞬。
「あの子」とか、ちょっとオブラートにくるんだ言い方で、第三者を紹介する。
その頻度も、あなた50回に対して第三者1回という程度で、ものすごく少ない。

aiko世界には予想どおり「あたし」と「あなた」以外には登場しない。
これは、aikoの歌詞世界の特徴といえそうです。
(サンプリングエラーの可能性もあります。たとえば『アスパラ』『明日の歌』などの失恋直後を思わせる曲には、恋敵であろうと思われる「あの子」がもう少し出てきます。)

念の為、aiko以外の普通の歌謡曲も聴き比べてみましたが、第一人称・第二人称の関係性が歌の中で大半をしめるのは共通とはいえ、第三人称含め、他の登場人物がまあまあでてくるのが普通です。たとえばドリカムとか。
aiko世界には友人とか家族とかそういう近しい存在さえもほとんどでてきません。

結果2:「あたし」「あなた」だけなのか

aikoの第一人称は「あたし」第二人称は「あなた」と勝手に思っていました。
基本的にはやはりそうです。

第一人称の合計206回のうち、「あたし」が188回(91%)、
第二人称の合計303回のうち、「あなた」が258回(85%)でした。

しかし、100%ではなかった。それ以外のパターンも結構ありました。

「僕」「君」パターンが 5% (3/56曲)にあり、
「あたし」「君」パターンが 7% (4/56曲)にありました。
その他、分類に悩んだんですが、「ボーイフレンド」(『ボーイフレンド』)「Darling」(『恋をしたのは』)などもありますが、これは特殊な外れ値と言えるでしょう。

作詞の表記揺れもあります。シングル曲だけでなくてアルバム曲も網羅すれば、まだ珍しいのもありそうです。例えば『BABY』収録の『鏡』では、「俺」という見慣れない第一人称が使われています。

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「あたし」「あなた」以外の人称に時代的変遷がないかどうかを調べました。
今回のベスト盤に収録されている56曲を38枚のシングルの発表順に並べたグラフです。*4
青い色は「あなた」「あたし」の回数を、赤い色はそれ以外の第一人称・第二人称を示しています。
あくまで傾向ですが、年代がくだるにつれ、「あたし」「あなた」の定型から外れているものが増えているようです。

理由はいろいろ考えられますが、

  • マンネリズムからの脱却。
  • 人称を変えることにより、関係性の異化作用を狙った(Aikoさんご自身のそういう発言もあるようです)。より普遍性を獲得するために、また歌詞を書く際の技法としての人称の変更もあるでしょう。「僕」「君」パターンは、性別の倒置も可能ですから。
  • 「あたし」「君」パターンは第一人称はいままでの「あたし」のままだけれども、第二人称だけが「君」になっています。Aikoも年齢が上がり、たとえば、恋愛のパターンとして相手が歳下もしくは社会的地位が下だとか、そういう可能性もあるかもしれない、とも思いました。

さいごに

今までaikoの楽曲に感じていたことを実証しようと、かるーい気持ちで、ブックレットの歌詞カードから「あたし」「あなた」をカウントする、という誰のなんの得にもならない作業を今回やってみたわけです。俺結構多忙なエグゼクティブ*5なんですけども。

歌詞カードをとっくり読み込んで発見したことは、歌詞カードからの方が、aikoの地の声が聴こえる気がしたことです。
視覚でaikoの歌詞世界を眺めていると、歌よりもaikoに迫った感さえありました。
なんだかんだいって、歌はバックサウンドとかコード進行とか、注意する要素がたくさんあるから、純粋に歌詞を味わう感じにはならない。

歌詞を読むと、aikoのセリフとなって歌詞がきこえてくる。
「あなた」を呼ぶ「あたし」の声。
時には自分の中の「あたし」が「あなた」を見つめている、そういう気分さえもなる。

aikoの世界って、aikoが特定の誰かとの恋愛風景の断片を歌にしたものですけれども、今までのaikoの人生の中で為されてきたそれらが一塊となって迫ってくると、もうaikoの魂からダイレクトに本質的ななにかが、こちらの心に飛び込んでくるようでした。
なんか、すごかった。

確かに、俗世の人間関係を、それこそ吟醸酒精米歩合のように削りに削れば、最後にのこる関係性は「あたし」と「あなた」しかありません。
aikoの歌詞では「あたし」と「あなた」は絶対的に存在していて、距離の近い遠いはあれど、別れの理由など、ほとんど言及もされません。
俗世的なことをいえば、別れる理由には、経済的理由だとか、第三者の存在(「あの子」ね!)だとか、浮気だとか、いろいろあるでしょう。
 そういうのはほとんど歌詞にはでてきません(あっても一瞬です)。
大事なのは「あなた」と「あたし」の二人の心だけ。

だから、aikoの歌詞世界は、社会性がないのではなく、社会性を削ぎ落としているんだと思います。

作業の合間に歌詞を熟読していると、なんかだんだんこのaiko世界に侵食されて、
この44歳のうすぎたないおじさんが、「あたし」と「あなた」の世界にひきこまれていくんです。
すごいなaiko
というか、aikoいままでよく変なやつにストーキングとか、殺されたりせえへんかったな!
とさえ思う。

まあ、確かにこのaikoの「あたし」から「あなた」に向けて発せられる愛、一曲二曲分だったら、治療濃度としてちょうどいいかもしれない。
けど、このベスト盤のぶん全部浴びたら、致死量かもしれんわな。
放射線みたいなもんやわ。

いやもうほんま、こんな強度で人を愛しているのに、なんで別れるの?
いや、知らんけどさ。
というか、なんで結婚しないの?とも思う。
もう絶対的な愛すぎるやん。
いや、aiko本人の人生のありように文句はいいますまい。
aiko的な世界を俗世に届けるシャーマンのような存在なんだと思う。
ありがたや、ありがたや。

* * *

はい。というわけで、そういう疑似体験、おすすめです。
ベストを買って、ブックレットを冷房の効いた部屋で、ベッドに寝っ転がって読んでみたらいい。
ティーンエイジャーの頃の記憶がよみがえって、死にたくなるから。
そしてTシャツの匂いとかかぎたくなるから。

あと、いい子ちゃん(『Do you think about me?』)ってなんだよ。
「いい子ちゃん」歌詞に書いて許されるのは、aiko東京03の角田の『マジ歌選手権』だけだろ。

*1:本人も釈明コメントを出したりしましたね。安いのはありがたいことです。

*2:この辺で、このエントリがaikoにおかされていることを察するべし

*3:陽と陰の「あの子」は人称とすれば意味が通らないので、あの子=うた、なのではないかという説があるので、今回の計量からは外しました。

*4:今回のCDは膨大な量ではありますが、すべてのシングル収載曲が取りこぼしなく入っているわけではない。だいたい7割くらいでしょうか。

*5:所得税率は一応45%なんで、一応察してください

『読書する人だけがたどりつける場所』齋藤孝

オススメ度 60点
コペル君につられてもうた度 100点

基本的に、読書が有用であることは、僕は知り尽くしているつもりだ。
1日に1読書記事を掲載していることからもわかる通り、僕はむしろ濫読派。
食事でいえば、過食症に近い、過読症というやつだ。

なので、こういう「読書はいいですよ」という記事については、「ま、そうですよね」と思ってします。
反論なし。

読みやすく、本の効用を説いている本。

(論旨)
・現代人は、SNSとかもあるし、「読む」量はむしろだいぶ増えている。
・現代人のアテンション・スパン(一つのことに集中できる時間)は8秒。2000年には12秒だった。今や金魚の9秒より短いらしい。
・読書は「深み」をつくる。幅広い教養が、人生を面白くする。

で、いろんな視点、
たとえば、「思考力を高めるX冊」とか
「現代に必要な知識を持てるX冊」
「人生を深める名著X冊」みたいにまとめて紹介してある。
僕も、結構な本読みと自覚していたけど、原典といえる本は、読まずにすましているよなあ…と反省した。
(その手の古典はやはり精読が必要になるからだろう)

もう完全に、受け手目線ではなくて、書き手目線の話ですけど、
自分の推薦図書を紹介できるの、ちょっとうらやましいですよね。
出口治明さんや『スゴ本』なんかもそうだけど。

多読家からすれば、読書の効用なんて百も承知。
アルファビブリオフィラー(愛書家)のマウンティング。僕としてはそこに憧れるところです。

あと、装丁に「君たちはどう生きるか」のコペル君をしれっと出しているので、
これで買った人も一定数いると思う。これ、別にコペル君って書いてなくて、ただ単に本読んでいる少年のイラストなんだから、
セールス的にはうまいよなあと思った。

『大戦略論』ジョン・ルイス・ギャディス

オススメ度 90点
日本人には苦手な常識を前提とするので度 60点

大戦略論

大戦略論

ちょっと難解過ぎた。

大戦略」というと、日本では古典的コンピューターシミュレーションゲーム大戦略」がある。
システムソフトでしたっけ?

大戦略」というとあれのイメージだよな。
(厳密にいうとゲームの「大戦略」は戦術ゲームに過ぎないと思う)

この本は、その「大戦略」ではなく、「国家戦略」とでもいうべき、国際情勢の中での方針のたてかた、とかそういうものに関するお話。

よくできた本だし、この手の本の内容からすれば簡潔にまとまっているとは思う。
それでも正直、読むのに結構時間がかかった。
アメリカ独立戦争時の大統領や、南北戦争の時のリンカーンクラウゼヴィッツトルストイペリクレスとツキディデス、
エリザベス・フェリペ二世など、例に出されている人たちが、我々にとってはやや馴染みがない部分が多い。
西洋で、リベラルアーツとして当然修められているべき西洋史が知識の前提にあるため、日本人にとってはいささか読みにくい。
(逆に言えば、内容が難解すぎる、ということはない。ただし、訳文の常で、文体もやや固い)

本の主題は「大戦略」をうまく導くにはキツネとハリネズミ的な考え方のバランスが大事、ということ。
キツネはたくさんのことを知っているが、ハリネズミは大きいことを一つだけ知っている。
キツネとは、つまり、雑多なデータを理論化せず集めて、現実に近づける思考法。
ハリネズミは、つまりすべてのことをたった一つの構想あるいは体系に関連付ける思考法。
簡単に言えば、キツネは帰納法的な考え方で、ハリネズミ演繹法的な考え方だ。
少し意味は変わるけれど、タテマエとホンネ、といってもいいかもしれない。
キツネ的な思考法の方が、データから離れない分近視眼的な予測は正確である。だが、現状追認でもあるので、場当たり的でもあり、中長期的な方針を立てたりするには向いていない。
ハリネズミ的な思考は、目的や目標を定めやすい。が、そこに至るまでの実行可能性や、現実的な制約からおうおうにして乖離する危険性を孕む。
キツネ的な思考とハリネズミ的な思考は、本来相容れないものだが、この相反する二つの思考を同時に持ちつつ、しかもきちんと働く知性が、大戦略には不可欠である、という話。

はっきりしているのは、
「キレイゴト」だけでは物事は立ち行かず、日本的な語彙でいう「硬軟あわせた立ち居振る舞い」さらにいえば「清濁をあわせのんだ」行動が必要ということになる。

具体例として、リンカーンや、チャーチルの戦略などを例示している。

かなりスケールは落ちるけど、
類書としては「戦略の本質」が、意思決定に至るまでのプロセスを例解していて、読み味は似ているかもしれない。

戦略の本質 (日経ビジネス人文庫)

戦略の本質 (日経ビジネス人文庫)

これはこれでいい本ですよ。

『「脳のゴミ」を捨てれば脳は一瞬で目覚める!』

オススメ度 80点
でも言い過ぎやろ度 100点

「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!

「頭のゴミ」を捨てれば、脳は一瞬で目覚める!

読むと納得することが多い苫米地氏の本。

いろいろなしがらみから自由になれば、生産性も多分上がる。
例えて言うならば、雑然とした机の上では作業ができないけど、すっきりと机の上を片付けると、考えられるでしょ?
という、そういう断捨離・ミニマリスト的なコンセプト。

しかし、歴史的な偉人のほとんどの机の上は散らかっていたという証言もあり、その辺は、本当だろうか?と思うところもある。

ただまあ、複数の決定事項を抱えていたら脳は能率を失うということもあり、適切に外部化することがのぞましいのは間違いない。

本の内容は、まあでも説得力がある。
・感情に囚われているのから解放されよう。抽象度をあげると心の傷は癒える。すべての感情を娯楽にせよ(自分を客体化せよ)。
・「他人のモノサシ」を捨てよう。他人から評価されること、一般的な名声を軸に生きても、幸福はおとずれない。
・「過去の自分」を捨てよう。今までの自分のやり方、あり方、思考方法から抜け出すためには。自分は書き換え可能である。
・「マイナスの自己イメージ」を捨てよう。自分の言葉に振り回されるな。ポジティブなイメージを持とう。
・「我慢」を捨てる。「我慢」「忍耐」の美徳は、本当に現代でも美徳か?
・「自分中心」というゴミを捨てる。
自己啓発的なアプローチではあるが、フィーリングよりもロジカルで説得するタイプなので、読みながら、論理破綻とか、危うさは感じない。
苫米地さんは、高度なことをわかりやすく書いてくれるから、読みやすいしね。

この本も、いいこと書いてあるんだが、
しかし、なかなか脳が覚醒するまでいくかと言えば、それはちょっといいすぎ過ぎないか?とは思った。

とはいえ、ある種のガチガチに固い考えの人が読んで、なんか変わってくれればいいな……
そう言う人こと、本とか読んだくらいでは考え方は変わってくれないのだけれど。

「舞姫」の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本

オススメ度 80点
いろんな意味でなげーよ度 90点

タイトルなげーよ。
しかし、本の内容はなかなか面白い。
江戸期の文学と言えば、戯作とか、文楽・歌舞伎などの大衆演劇。(能は少し敷居が高い)
明治期になったら、夏目漱石森鴎外などの「純文学」がでてきて、そして戦後に至る。

ところが、明治期には、江戸期の戯作文化の正当後継者である講談文化のような大衆文学が相当存在していたらしいのである。
もちろんクオリティも高くはなく、歴史に残るものは少ない。
が、細かいこと言わずに物語を書き連ねる面白さは今隆盛を誇る「ライトノベル」に通じるものなんじゃないか、という話。
そんな日本文学の地下水脈と言える一連の作品を、とりあげたのがこの本。

結構ジャンルは多岐にわたるので、丁寧にいろいろ紹介していると、20万字になってしまったわけだ。
しかし長いぞ。でも、多分原典に当たる苦労を考えると、20万字でも多分短いくらいなんだとは思う。

ただし『箕輪城物語』が他の講談速記本と違うのは、本筋以外の雑味の豊潤さにある。実は初めて読んだ際には、そのあらすじはほぼ忘れてしまい、面白さだけが残っているという状態に陥った。これは優れた大衆娯楽映画を鑑賞した後の感覚に非常に似ていた。私は映画の「トラック野郎」シリーズが好きで何度も観ているのだが、例えばお正月にダメな親父を、子供のもとにまで届けるエピソードが何作目のものかと考えると、どうしても思い出すことができない。もちろん個人的な資質もあるのだろうが、そのストーリーを理路整然と語ってみろと言われると困ってしまう。

途中で、時事ネタが挟まったり、森鴎外の名作「舞姫」にでてくるエリス、みたいな登場人物が、でてきたり、やりたい放題。
技術的には稚拙だが、書きたいものを書くという態度で、大量のテキストが量産されていた、という事実を初めて知った。

しかしやな。
かなり面白かったのだが、タイトルが長い上に、本文もやったら長い。結構読むのに力を要したのは確か。
そして長いものを読んだ割に、得られるものは、
はっきりいって、ないです。(笑)。
ふーんそうなんか。という。

『サ道』タナカカツキ

オススメ度 70点
でもまだサウナの快楽には足を踏み入れないの 100点

以前に「サ道」という本も上梓しておられたタナカカツキ氏。
タナカカツキといえば「バカはサイレンで泣く」ことバカサイ、からの派生「バカドリル」で一斉風靡した人物だ。
今でも天久聖一タナカカツキとか、バカサイ一派のやつは読んでしまうよな。

* * *

サウナに関して言えば、僕はこの本にあるような形で、快楽を得るところまでひたったことがない。
スポーツジムにあるサウナを少し試した程度だ(くつろぐスペースがない)

夜は結構忙しいしね。
繁華街の喧騒が乏しい地方都市において、夜出歩くのは12時まで、と決めていると、サウナで数時間を過ごすというのはちょっと難しいのだ。
都会に出張に行った時に、試してみればいいのかな?
でも、都会の繁華街にあるサウナって、アスファルトジャングル間半端ないじゃないですか…


この本で描かれているように、脳内麻薬がドバドバでるような気持ち良さがあるのなら、体験してみたいような気はする。

タナカカツキ氏は、こういうサウナ啓発活動が認められ、「公益社団法人日本サウナ・スパ協会」の公式サウナ大使だそうな。
とりあえず本を読んで「ととのいました」というタームが、自分の語彙の中に、そっと割り込んで、使うようになってしまった。
漫画は、だんだん登場人物の背景も見えてきて、物語として走り出しそうで走り出さないところが面白い。

SPA世代といいますか、団塊ジュニア世代って、おじさんになりきれない若者にも混じれないっていう年代だと思います。
この世代のアイコンであるダウンタウン松本のワークアウト。
タナカカツキ氏のサウナへの誘いといい、年相応の親父作法をインストールされつつあるような気がする。
(いやまあ自分がそうなだけなのだが。一般化する悪い癖。)

『目玉焼きの黄身 いつつぶす?十二巻(完結)』

おおひなたごう
同時期に女性恐竜が主人公の漫画「ラティーノ!」も連載していたと思う。
芸の幅が広いひとですよね。

細かい設定を作って、その「型」の中で動かしてバリエーションをつける芸風が得意だと思う。
お笑いで言えば「天丼」、作曲技法で言えば「Motif展開、Motivating」というやつ。


バカリズム トツギーノ(1)
バカリズムのフリップ芸は、「天丼」の教科書的な名作だと思う。)

日常よくある食い物の、食べ方について、おとなげないこだわりと偏狭さを持つ主人公。
当初、ぬいぐるみショーのアクター、女性芸人というカップルの二人は、些細なことで、喧嘩し、仲直りし、しかし、またあらたな食で憤激し、を繰り返していたが、主人公の人格的な成熟もあり、だんだん怒らずに、受け入れる度量の広さを見せるようになる。

それにつれて、二人のライフステージも変化し、この12巻では結婚し、ハッピーエンドとなる。
ささいな食行動漫画とみせかけて、成長譚に着地し、なんとなくほっとした。

同じようなこだわりの「食行動」漫画としては

これも少しにている。ただしこちらの方が、奇人変人見本市感は強い。