半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『保守と大東亜戦争』中島岳志

Kindle版:

我々は冷戦終了後のポストモダンからざっくりと過去を総括している。

司馬遼太郎が「鬼胎の時代」と呼んだ、満州事変から敗戦までの戦前昭和史。
単語を羅列したら、
治安維持法、右翼の台頭、軍部の台頭。
やがて 満州事変、支那事変、そして戦時体制から大政翼賛会、そして太平洋戦争、敗戦。

今の時代の我々は、敗戦までの昭和軍部の暴走は「右翼、愛国団体、保守反動」にあるとざっくりと理解している。

しかし、もう少し丁寧に細かく時代を読み解けば、満州事変、支那事変と戦争を拡大させていったのは一種の革新勢力。
2・26事件の青年将校の思想的淵源となった北一輝はおそらく、その頃のインテリゲンチャの中では革新勢力。
「保守反動」と呼ばれた知識層はむしろ戦争反対だったことを、我々はもうちょっと理解しておく必要があるよね、

………というのがこの本の背景。

* * *

「保守反動」というのはそもそもが漸進主義であり、イノベーションに対して懐疑的であり、人間社会に普遍的にある価値観を重視する。
それは、ある局面においては停滞の原動力になるかもしれないし*1ある局面においては行き過ぎた過度の社会変革の抑止力にもなりうる。

近代文明は「持てる国」においてはジキルとなって現れる一方、「持たざる国」ではハイドとなって現れる(竹山道雄

近代文明を盲目的に受け入れた日本、帝国主義植民地主義に乗り遅れまいと拡大政策をとる軍部、に異を唱えたのは、左翼(マルクス主義者)ではなく、戦前右翼(保守反動勢力)であったことは、本当は忘れてはいけないとは思う。左翼勢力はコミンテルンの指導のもとむしろ火に油を注いだ。

敗戦で、機をみるに敏な軍国主義者が、一斉に社会主義・左翼にふれたため、保守反動陣営は、ここでも冷や飯を食った。
戦争中に声高に「国体」を叫んだ人間と、戦後に「平和」を叫ぶ人間が同根の存在である。
保守反動はその両者から距離をとることを言論の核に据えた。だからこそ、戦後も冷や飯を食うことになる。

おまけに、戦中は戦争に反対していたのに、右翼=戦争礼賛と勝手に一緒くたにされた。
でも自衛のための戦争そのものを否定はできない(ここが戦後左翼とは違うところ)。
戦没者への慰霊や畏敬は、むしろ右翼の保守反動勢力(「ビルマの竪琴」の竹山道雄)の手でなされていることは我々は覚えておかなければ、という話。

保守反動史観(この本はそこまでベッタリではないが、共感度は高い)に添って世界を見直すと、興味深い事実がいろいろ出てくる。

統制派の軍閥も、皇道派青年将校も、戦後民主主義も、絶対的正義をかかげることで自己への立場を獲得しようとする「粗雑な心理」の持ち主であると、保守反動勢力は規定する。戦後の左翼学生の「攻撃性」(政治的に天分のある若いリーダーたちは、ともするとはなはだしい権謀術数に奔る。「小さなヒットラー」のように振る舞う)は、歴史を振り返ってうなづけるところ。マルクスにかぶれていた人間が、どうやってマルクス主義を手放したのか、その思想転換をきちんと語るものは、ほとんどいなかった。


ただ、保守反動勢力って、普段地味なやつで、飲み会とかで騒いでいるやつを尻目に、もくもくと後片付けをしていたり、潰れたやつを介抱しているようなやつなんだな、と思った。そういう人に口を開かせても、まあアジテーションはしないよね。誰かを煽動したりはしない。
だからこその「反動」勢力なんだろう、とは思う。

かといって、保守反動が、いい、とかそういうことは僕はおもわない。
でも、例えば「諸君」「SAPIO「Will」を読んでも、そんなに良質な言辞に出会ったりもしない*2。難しいな、この話。まとめきらない。

橘玲氏の「朝日ぎらい」には、その逆で「リベラル」という言葉と、その変遷が浮き彫りにされていた。

戦後の教養主義もすたれて久しく今はすべての価値基軸がフラットになっている。
日本の人間社会のオピニオンなんかどうでもよくて、AI、IoT時代にどう立ち向かうか、とかだもの。

でも、保守反動勢力の身の処し方は、歴史の教訓になりうる話ではある。

*1:ラッダイト運動!

*2:むしろネトウヨといわれる人たちの好みそうな、勇ましい右翼記事が並ぶ