半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『ひろしのぼっちキャンプ』

去年から古民家にて焚き火をしたり、集まってキャンプ的な料理をしたりしている。
去年はコロナによる大閉鎖時代という感じだったので、いろんな人を呼んで賑やかに「陽キャ」キャンプであった。(もっとも、キャンプとはいえ、割と大きな古民家で、布団も完備されている。あろうことか床暖まで完備されているので、就寝環境は非常に快適だ)

しかし今年はそういう感じに人を呼んでキャンプというのに、少し疲れてしまった。
さすがにコロナ禍とはいえ3年目、世の中は動き出して、悠長にキャップに付き合ってくれる人も減った。

そんなことで、一人でこの山の家で何度か過ごしたりもしている。
山の空気と圧倒的に静かな環境は、少し疲れたマインドに馴染むのだ。

遅ればせながら『ひろしのぼっちキャンプ』はそういうマインドに、割とハマるのだ。
そんなわけで、一周遅れでアマプラでこれを見ているわけだ。

ひろしは、キャンプの達人感を出してくるわけでもなく、なんというか、等身大だ。
芸人ではあるけど、そんなにエッジの効いたことを言うわけでもないし、そういう意味でも
「普通のおじさん」感がある。才能がキラリ光る感じはない。
だが、それが丁度いい。芸能人の陽キャなキャンプ動画とは一線を画した感じが、丁度いいのだ。
作業をしながらでも、みながら離席しても、そんなに気にならない。
一回が15分くらいと短いのも、いい。

でも、ランタンでそこらへんの岩に明かりを投影して「絵になるだろ」と喜んだり、
稚気がある。キャンプ飯も、成功したり成功しなかったり。そもそもすげーシェフ感はないのだ。

でも、ずっと見ていると、意外に、ひろしの言葉遣いがうつるから面白いね。

ただ、テント貼ったりキャンプ場で過ごすのは結構大変だから、マジなソロキャンプはやっぱりしないかなー。時間は有限だし。

『ルールを変える思考法』川上量生

角川ドワンゴニコニコ動画の川上氏の経営論(俺はこう考えてるぜ、的なやつ)。
一言でいうと、渦中の状態から少し時間が経っているのである程度冷静に俯瞰できてよかった。

以下、備忘録的なメモ。

ゲーマーって、型破りだけど、柔軟な発想で、優秀な人が多い。頭の回転が速い。
現代社会はルールが複雑なゲーム。ゆえに戦略はそれゆえに単純にならざるを得ない。

「ブルー・オーシャン戦略」。かんたんに超えられる山は、その先は血みどろの戦場(レッド・オーシャン)
真のヒットは、説明できないものから生まれる。「わかりそうでわからないもの」が感情を動かす。
無駄を切り捨てる時代だからこそ、無駄をやることに価値がある。
ネイティブが増えてきた業界は活力が落ちる。常連だけの世界は衰退の第一歩。

集合知としての今の社会全体のクロック数は速くなったといっても、パーツである個々の人間のCPUとしての性能は落ちているように見えます。

どちらかというと、「勝ち残る」タイプの企業家ではなく、誰も考えていなかった市場を発見する(ブルー・オーシャン)のに長けている人の、直観的な物言いは、再現は難しいものだとは思うけれども、含蓄があると感じた。

『歴史学者という病』本郷和人

現役の歴史学者、国立史料編纂所で研究、編纂活動されている方の忌憚なき本。
(帯に『ぜんぶ、言っちゃうね』とある)。

著者の生い立ちから研究者へ、そして研究者としてのキャリアをナラティブに語るという「これ晩年に偉い人が『回顧録』として出すやつちゃうの?日経新聞の『私の履歴書』?」という感じの本だった。
(しかも、ものすごく主観と客観のアンフェアさもなく読みやすい)。

歴史研究者としては一般に歴史学を理解してもらう際に、必ずでてくる「科学」としての歴史と、「ナラティブ」としての歴史の違いの問題についても当然述べられている。歴史を学問として行っている「正調」の側から。

「正調」の歴史学と、いわゆる一般的な「読み物」としての歴史は違う。
たとえば、陳寿によって書かれた正史『三国志』と、羅貫中による『三国志演義』の違いといいますか。
例えば、司馬遼太郎とかがわかりやすい例。まあフィクションだけど、小説の割に考証や調査は行われており、素人は「正調」の歴史がこれか思ったりもする。ま司馬遼太郎は小説の体裁を取るのでいいけど、梅原猛とか「逆説の日本史」井沢元彦などは、いわゆる「説明文」でくるので一見歴史学っぽくみえるけど、正調の学問としての歴史学のフィールドで戦っているわけではない。(オルタナ歴史学とでも呼ぼうか)

この本のおもしろいところは、そういう「正調」の歴史学の立場を、いわゆる「オルタナ歴史学」の人たちの強みと思われる「ナラティブ」な読みやすさで綴ったところだろうと思う。


* * *

日本史の歴史学の泰斗との交流、妻との出会いなど含めて、筆者の人生行路を、非常に読みやすい形で追体験させてくれる、面白い本だった。同時に、近年の日本歴史学の偉人たちの近くにいたことで、その人となりや研究のスタイルなどの長短にも触れていて、興味深かった。
本郷先生は自分の近くの人のいいところもよくないところも傷つけずに描写できるタイプの書き手で(名をなす研究者にありがちなエゴイスティックな感じが希薄)その意味では水道橋博士の『藝人春秋』に読み味が近かった。

正調の歴史学者も、そこに至るまではナラティブな「読み物としての歴史」に触れて、歴史に興味を持ち、憧れて学問の世界に入る。
研究の道に進み「きちんとした」研究の手法を身につけていくなかで、いわゆるナラティブな歴史のやり方ではない視点や考え方を身につけ、歴史学者になってゆく。
だから、研究者とはいえ「ナラティブな歴史」に対するロマンや憧れはないわけじゃない。
ナラティブな歴史にありがちな「推測」「論理の飛躍」も、完全には否定していないのも面白い。
(正調歴史学者の中でも、「ひらめき」とかがなく、古書に書かれたことを延々と開陳しているような研究はだめだと言及されている)

まあ、医者でもそうですよね。ブラック・ジャックやドクター・コトーに憧れて医者を目指すようになった人は少なくない。
けど、医学をきちんと身につけた上で、ブラック・ジャックのストーリーやありようを真似するようなら、それは狂人だし、学会で発表するに至らないデータを一般向けに垂れ流す医師の「うさんくささ」は同業ならよくわかる。

四人組「網野善彦石井進笠松宏至・勝俣鎮夫」のそれぞれのスタイルや人となりなどの話も興味深かった。
当然ながら梅原猛とか、井沢元彦の名前は一切でてこない。

しかし、やはり研究者のバックグラウンドによってその立論もかわってくるし、巷間の思想潮流(マルクス主義、唯物主義から、80年代の構造主義への変遷)による変化の影響も簡単に触れられていた。(網野史観にはすばらしいところもあるけど、一種の欺瞞もあるのではないか。支配者は、領民を搾取するだけではなく、庇護する役割もあったはずだし…みたいな話)

研究者としてのビルドゥングスロマンとしても読めるし、
歴史研究の考え方をナラティブに紹介しているし、
日本の歴史学者列伝としても面白い。
いろいろな意味で密度の濃い一冊ではあった。

欲を言えば、正調歴史学者が、オルタナ歴史学を存分にディスりまくるパートがあったらなあとは思ったが、
それは別の本で期待したいところ。

参考:

水道橋博士

ビートたけしはじめ、芸人に対する愛が満ち溢れた一冊。

halfboileddoc.hatenablog.com
このエントリがそのまんまだが、前者が「オルタナ歴史学」、後者が正調歴史学の典型。

司馬遼太郎は僕もだいぶ読んでいる。梅原猛のあの「妄想がほとばしっちゃって…」みたいな感じも嫌いではないが、
まあ、例えば医学の分野でおんなじことされたら、やっぱりちょっとなあとは思いますけどね。

『ダチョウはアホだが役に立つ』塚本康浩

京都府立大学の名物学長、塚本先生の入門書。

タイトル、語り口、章立て、すべて、全然興味ない人に聴いてもらうのに、すごく良く出来てる。
全くの素人の人に、ダチョウという鳥に興味を持ってもらい、段々と学術的な話に進んでゆき、抗体開発の話に導く。
結局はダチョウも、肉や卵という農業生産としてのインパクトはあまりないけれど、ダチョウの「免疫力が異様に強い」という特性にたどりつき、抗体を作らせてみたらめちゃめちゃ優秀だった。気がつくと合計数百億を稼ぐプロジェクトが生まれていたというのが面白い。

また、獣医学部に入学する前のエピソード(工場に就職していたとか)、先生の人となりから、と、学究精神よりも、産学共同のスタンスにつながっているストーリー。しかも、関西弁の語り口で、難しい話題も、面白い話題も、えらぶらず、ほっこりとお届けする。見事だなー。

『プロセスエコノミー あなたの物語が価値になる』

SNS時代の売り方、プロセスエコノミーについての教科書的な本。とでもいうべきか。
だいぶ読了するまでに時間がかかった。

人もモノも埋もれる時代の、新しい稼ぎ方。プロセス自体を売る「プロセスエコノミー」
モノそのものはコピーできるが、プロセスはコピーできないから。
「Community Takes All」(アンドリーセン・ホロウィッツ)

自分がやりたいことをやって、作りたいものを作って生きていくために、プロセスエコノミーは強力な武器になります。

プロセスエコノミーの逆はアウトプットエコノミー。
アウトプットエコノミーが一定の規模まで到達したことで、もう差別化するポイントがプロセスにしかない、となった。
「役に立つ」ことより「意味がある」ことのほうが価値がある。

プロセスエコノミーの利点

  1. アウトプットを出す前からお金が入る可能性
  2. 寂しさの解消
  3. 長期的なファンを増やせるかも

グローバル・ハイクオリティ(アウトプットエコノミーの極北)か、ローカル・ロークオリティか。
モノも潤沢に溢れ、何でも安く変えるようになった時代、
Demonetized(非収益化)とDematerialized(非物質化)がキーワード
(ただし、これは宇露戦争や昨今の物価高で、時計の針が巻き戻った感じはある)

Story of Self、Story of Us

Effectuation:
・Bird in hand 自分の手のうちにある楽しいことを始めよう
・Affordable Loss 許容範囲の中で失敗を設計しよう
・Patchwork Quilt 単体では使い物にならない布の端切れを縫い合わせ、重ねに重ねて一枚の大きな作品が生まれます
・Lemonade 失敗の中に実は成功がある
・Pilot in-the-plane 中心人物がパイロットとして操縦桿を握り続けている

クリエイターを応援する、セカンドクリエイター
アウトサイド・イン(結果から戦略を逆算する)してかインサイド・アウト(自分の内面から沸き起こる衝動を起点とする)

という、アメリカとかのマーケティング理論を効果的に紹介していて、プロセスエコノミーという新しい潮流に向かう人間にとって、
よいチュートリアルになっていると思う。

アジテーションとしてもよくできている本だが、読み進めてゆくときちんと「プロセスエコノミーの弊害」も記載されているわけで、それは割と誠実。
・プロセスで稼げるとスタート地点を見失いないがち(手段と目的のとりちがえ)
・調整のレバーを間違えてはいけない(詐欺と紙一重
・大切なのは他人ではなく自分のものさし(ギャラリーにおもねるな)
・フィルター・バブル(自分のみている風景が世界のすべて)に要注意。自分を客観視すること。
SNSに踊らされる。プロセス自体に自分の人生が操られる
・観客を主体にするな
・「現実を視よ」(無茶をしているように見える人たちは実はリスクコントロールがとてもうまい)
・Will / Can / Mustの順番を間違えないこと

2020年代に、新しいことをしたい個人にとって、やはり読んでおくべき本なんだとは思う。
よくも悪くも時代性なんだろうな。

ただ、こういうマーケティングが前提となっている金・モノ余りの時代は、コロナとウクライナ戦争、その後の世界エネルギー争奪戦で、すこし風向きが変わっているようにも思われる。
これからの未来は2010年代の好景気に夢想したような、豊かでバラ色なものではなさそうで、「現実」の酷薄さに足元をすくわれる可能性もあるのかもしれない。

『勉強の哲学 来たるべきバカのために』

ビジネス書とか、自己啓発の本は「どういう風に効率よく勉強するか」ということを書いてある。
つまり”How to Study”の本。これが大部分。

しかし、この本は「勉強とはどういうことか?」を考える本。


"Why?"(なぜ勉強しなきゃいけないの?)ではなく"What?"(勉強とは何か?)を論じている本。
少し変わった切り口だとは思う。

  • 現代は勉強しやすい時代
  • 勉強を「有限化する」こと。

「深く」勉強する、ということは、流れの中で立ち止まること。それは言ってみれば「ノリが悪くなる」こと。
深く勉強するということは、ノリが悪くなることである。
 勉強は「獲得」ではなく「喪失」。
勉強をすると、言語偏重になる。
勉強とは、かつてノッていた自分をわざと破壊する、自己破壊。
しかし環境からの制約されている「自由」を得る。

なるほど、勉強は、単にお金を増やすように、自分の知識を増やすわけではない。
自分の頭の中を作り変える(脱構築)ステップが必要だ。
そこは知識偏重によって実践力が削がれるリスクもはらんでいる、ということか。
それは、次の段階にステップアップするためには避けて通れない。

なるほど。
ジャズの勉強もそうだし、医学に関してもしかりだと思った。

半熟ドクター|note

最近、ジャズの勉強を伝えるページをNoteでやっているのですけれども、これで、初学者の人から中級者上級者までいろんな人のアドリブを見る機会がありました。
どういうアルゴリズムでアドリブが作り出されているのかというのが、アドリブ譜を見ると、透けて見えるわけです。理論的に「深い」方がいいアドリブができるわけでもない。そして、アドリブの向上というのは、一つのアルゴリズムが完成した後、もう一度「オーバーホール」して新たな語法を形成する、という繰り返しで作られるものだと思います。こういうプロセスを考えると、この勉強の「言語化、再構築」というものはわかりやすい。

第二章、勉強の本質論。
ここは、言語論、意味論、言語の環境依存性などを織り交ぜ語られており、正直、あまりピンとこなかった。
今の自分にとって、このトピックはあまり本質的に問題意識から遠いからなんでしょうか。
この章は、結構深いことを問うているので、もう一度読んでみたい気もする。

三章・四章は、具体的な勉強の方法の本質論。

・欲望年表を作る。メインの欲望年表にでてきたこととサブの欲望年表に出てきたことを接続する抽象的なキーワードを無理にでもわざと考え出す(ナラティブ)
・まともな本を読むことが勉強の基本
・入門書は複数比較するべき。頭の中にブックマップを作る。
・教師は有限化の装置であることに気づけ(その教師なりのフレーミング効果を形成している)
・難しい本を読むのが難しいのは、無理に納得しようと思って読むから(テクスト内在的に読む)
・どこからが自分の考えで、どこからが他人の考えかを区別して読む
・情報過多の現代においては、有限化が切実な課題。

 微に入り細に入り勉強方法を書いてあるわけではないが、自己学習の要諦について書かれてある。

いわゆる「勉強しなさいね」というわかりやすい自己啓発本ではなく、そして「なぜ我々は勉強するのか?」という、これはそれなりにすぐ答えを出る問いでもなく、「勉強とは何か?」という問い。

面白いね。考えたこともなかった。
ここに疑問を持つ人は少なく、それゆえにニーズも少ないかもしれない。
が、人にものを教えようという人は、読んでも損はないような気がする。


以下備忘録

          • -


・「周りに合わせて生きている」というのは、環境のコードによって目的的に共同化されている、ということ。
・勉強によって自由になるとは、キモい人になること。
・哲学とは、根本的にツッコミの技術
アイロニーから、決断主義

『あなたの給料が上がらない不都合な理由』



平易な言葉で、社会人初心者の方に、世の中の仕組みを教示するタイプの本。

・経営者は、会社を継続する責任があるので、社員の給料は簡単にはあげられない。
・給料、さげてもいいなら、上げるのは簡単。でもそうではない。

この辺は、僕も以前に書いたことがある。
hanjukudoctor.hatenablog.com

みんな、通る道なんだろうな。
しかし、この物価高に、職員にしっかり給料を出したいとは思うけど、事業存続を優先させる気持ちは、やっぱりある。
いろんな理由で、給料をあげようという仕組みづくりをしているのだけれども。

ニートにくらべたら、なんだっていいや
・非正規雇用が、コストを削減するためのバッファー(緩衝材)として使われるようになってしまった
・安定雇用のためには内部留保が必要。ちょっと業績が良くなったからといって全部配っちゃったら会社は潰れてしまう。
・貨幣錯覚を錯覚だと侮るなかれ。
プロスペクト理論
・職業選択は、感覚的には投資に近い。給料を上げたかったら、リスクをとるしかない。
・他人を追い越すほどの給料の上昇を望む人にはリスクを伴う決断が必要になる
・平均賃金を単純比較するのはナンセンス
・日本は必要以上にダメと言われすぎ。
マルチ商法、事業化集団・「環境」の「師匠」たち
・上昇気流がと吹いてきたときに飛んでいたか、というのが大きい。問題は低空飛行でもいいので、長く飛んでいること。
・大きく飛躍する技術より、墜落しない技術のほうがずっと重要

間違っていることはビタイチいっていないけど、これは人を選ぶよなー。と思う。
あと、これをオススメ、と従業員に読ませる経営者はタチがわるいよなあ。とも思う。

あと、ウクライナ情勢とか、ポストコロナ情勢についてのヒントとか、とにかくわかりやすく盛りだくさん。

「思考の外注」を行う人にとっては、すごく便利な存在ではないか。
うちの親族にも、どっかで聞きかじってきた知識を開陳する人がいるが、
そういう人が好みそうな、クレンジングされた強いメッセージをとどけてくれる。
そういう強さのある本。

池上彰」じゃないけど、コメンテーターに選ばれるのも無理はない。