半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『住友銀行秘史』国重淳史

住友銀行秘史

住友銀行秘史

Kindle版はこちら(私はコチラで購入)。
住友銀行秘史

住友銀行秘史

なんかのブックキュレーションサイトで紹介されていたので買った。
イトマン事件のあたりのモヤモヤ、ドロドロした話を、銀行内の優秀な中級職の手によって記録された随想録。
うーん「リアル半沢直樹シリーズ」みたいに思われる。事実は小説よりも奇なり。いや、生々しさと前時代さは、「不毛地帯」かもしれない。私は『金融腐食列島』を読んでいないが、あれもその手の生臭い話なんだろうと思うが、とにかく、むちゃくちゃ面白い。

頭のいい人の叙述というのは、メモの断片だけだけでも、やはりそうとしれる。
すぐれた棋譜を見た際の知的興奮というか。『ガリア戦記』のような面白さだと思う。


著者の国重さんは、実力では皆に一目置かれるバンカーで、同期の中では最も早く役員になるなど行員出世レースではトップを走っていたが、結局頭取にはならず銀行人生を終えた。
その後紆余曲折のあと楽天の副会長になるも女性問題で職務を全うせず不本意な辞め方をすることになる。巷の噂では、女性関係には色々問題があった、ということだった。バンカーとして大成しなかったのも、そういう部分もあったのかもしれない。

だが、そういう自分に関するところは、当時の記録からも巧みにクレンジングされている。
つまりこの作品は「信用できない語り手」による叙述トリックの部分がある。


いまこの歳になって、若い頃の記録を振り返って述懐するに…ということは、ある種、自分の人生の総括をする、ということだ。
しかしこの本からは、その時の、そしてその後の自分の人生に対する反省とか、そういう自省は微塵も見られない。正直にいって自省をしたような葛藤さえもないように思われる。

そもそも、この国重さん、彼が行動し、退陣に追い込んだ「住友銀行天皇」とも称された樋口頭取の秘書と結婚しているんである。当然ながら、情報の出所として、彼女の存在も多分にあっただろうが、この本にはその事実は一切書かれてはいない。

だから、この本は、晩年期に全てのことを正直に書いて自分の仕事人生を後世の批評に耐えうるべく記録するという「人生の総括本」ではなく「まだまだやったるでー。そや、昔の俺の武勇伝を聴かせてやろう」という趣きの本で、その息の生臭さには、いささか鼻じらむところがある。

こうした「元気中高年」といった生臭オヤジは、まあまあ巷にいる。こうした人々が日本経済を引っ張って行き、今後も引っ張っていくであろうことは確かであるが、あまり接したくないタイプではあるなと思った。

[book]参勤交代シリーズ

んー気が付くと一ヶ月くらいすぐ経っちゃいますね。InputはともかくOutputを増やそうと思いつつ、ダメね。
ちょっと前からアマゾンプライム(プライム自体はだいぶ前から使っていたんですけど、プライムビデオを利用するという頭がなかった)を観ていますが、こりゃ便利といえば便利っすね。
問題は少ない可処分時間をさらに食うこと。
なんかでオススメされていたので、観てみたわけです。

超高速!参勤交代

超高速!参勤交代

おもしろいじゃん。
ちょっとストーリーとプロッティングに無理があるような気もしたけど、テンポよくハラハラが連続し、飽きさせない佳作と思います。
湯長谷藩と同じく、映画製作チームもそんなに予算が潤沢ではないこともうかがえるのですが、それも含めて、よかったです。お殿様を中心とした、ホモソーシャルな集団のありようは、ちょっと昭和っぽい古さがあるものの、実に楽しそうでよかった。
貧乏だけど、武芸の達人、とかいいよね。
深田恭子もかわいいなあ。ノベライズも読んでみたが、割とわかりやすくお金がかかるシーンは映画ではカットされていたように思う。あと、藩主の妹が、藩主になりすますくだりがあるのだが、その部分もカット。これは、映画化された場合に、もうちょっと若いイケメンタレントの場合は実現したのかもしれない。いや、おそらくプロットをシンプルにするためでしょう。

最近、続編のリターンズが出たので読んでみたが、あー、これはちょっとあー。
エイリアンが面白かったのでエイリアン2をみた時と同じ、感想。
荒唐無稽さとリアリティのバランスが、前作ではギリギリのバランス(若干アウト気味)だったのが、今回はさすがに完全にアウトで、そのためにストーリーを受け入れられませんでした。

[book]『羊と鋼の森』宮下奈都

羊と鋼の森

羊と鋼の森

Kindle版はこちら
羊と鋼の森 (文春e-book)

羊と鋼の森 (文春e-book)

紹介には『祝福に満ちた長編小説』とあった。
確かに、そうだった。

音楽にかけらも興味をもったことがない田舎の少年が、とある偶然か運命か、調律師を目指すようになる。ひとことで言うと、調律師のビルドゥングスロマン

私もピアノというものに長年縁がなかったんだが、つい最近自宅にピアノが来たので、下手なりにピアノを弾くようになった。それまでは長年ジャズトロンボーンを吹いていた(今もである)。
トロンボーンというのは、まっすぐ正しい音を出す、というのがとにかく難しい。音程感覚がないと、正しい音は絶対に出ないのである。ドレミファソラシド、をまともに出せるようになるのに、年単位かかるのだ。
ピアノというのはそれと真逆の楽器で、鍵盤を押すと正しい音は出る。ドレミファソラシドを出すことは、簡単だ。
 だからこそ、ピアノでは、その先、つまり何をどのように音を配列するか、それが難しい、と理解していた。
トロンボーンが単音楽器であるのに対し、ピアノでは同時に複数の音を出すことが要求される。

 ただ数年前から持っていた電子ピアノから、生楽器のピアノに進出してみると、自分のそうした理解が全く浅薄であることに気付いた。指の沈め方で音色は全く千差万別であるし、その日の気温・湿度によっても、ピアノのフィーリングは全くかわってくる。もちろん、楽器ごとの個体差というのもすごくある。そんなことは触ってみるまで気づかなかった。

 だから調律という作業は、狂っているものを直す、という単純なものではなく、とんでもなくクリエイティブなものなんだろう…ということも想像がつく。理想を言えば、到達点は無限のかなたにある。
 
 この小説は、本来あまり主役にならない調律師の仕事のありようを、とても誠実に好意的に描いています。だから音楽にもピアノにも、もちろん調律にも興味がない人間にも、魅力を伝えることに成功していて、さすが本屋大賞と思いました。

 ただ、美化しすぎかなあとは思いました。地方都市のなんでも調律する楽器店にそこまでの俊才があつまるかしら。地方都市の駅前ヤンキーの言う「世界征服」のような「閉じた世界」感が…

 いや、でも。
 私の妻は子供の頃からピアノを弾いているのだが(プロじゃないですよ)、たまたま自宅のピアノを調律しに来ていた方が、その後スタインウェイの認定調律師になってらっしゃって(すごい調律師ということなんですよ)県をまたいで、今うちのピアノの調律をしにわざわざ来てくれている。
僕のまわりにだって、そういうドラマはあるわけだから、この小説が、何も荒唐無稽というわけでもないかも。

 ピアノという楽器は、ほかの楽器より、ちょっと熱量の桁が違う感じが確かにあります。ピアニストのいう「ピアノが好きです」という言葉は、結構な魂の底の底の方から発せられているし、ほかの楽器に比べて、人生狂わせられちゃう度合いも多いような気がする。
 トロンボーンの場合は、自分の声を音にしている感じなので主体性はこっちにある。でも、ピアノって、自分の意志もあるけど、ピアノの中に何かが棲んでいて、それが音の半分を担っている感じがするのよね。

私、大人になって人生決まってからピアノ触ってますから、まだ多少の距離を置けますけど、確かにこの楽器、魅入られるやばさがあるんですよ。
 

[book]世界最悪の旅

世界最悪の旅 (地球人ライブラリー)

世界最悪の旅 (地球人ライブラリー)

えーと、ちょっと前、岡山に行く用事があって、シンフォニーホールの下にある古本市でなんとなく購入。
なんとなくね。なんとなく。

CDだと「ジャケ買い」という言葉があるが、この本はずばりタイトル買い。
内容は、南極探検にいった「スコット探検隊」の話。
ノルウェーアムンゼン隊と、イギリスのスコット隊が南極点を目指していたのだが、スコットは結構前から準備していて南極点到達を前もって目標にしていたのに対して、アムンゼンはわりと不意打ち的に南極探検に向かったらしいっす。
 結果的にはアムンゼン隊が一番のり。犠牲者ゼロ。
 スコット隊は南極点到達はしたものの、一番のりは逃すわ、帰りに全員死んでしまうという、いいところなし。
 おまけに、スコットちょういいやつだったらしくて。アムンゼントップダウン型のアクの強い性格。
 なんかかわいそうだなー。

しかしこのアムンゼン隊とスコット隊の対比、何かに似ているなと思ったんですけれども、「八甲田山」の青森隊と弘前隊との対比と共通点が多いように思う。

五十嵐大介『魔女』

魔女 第1集 (IKKI COMICS)

魔女 第1集 (IKKI COMICS)

魔女 2 (2) (IKKI COMICS)

魔女 2 (2) (IKKI COMICS)

Kindle版はコチラ。(僕はこっちを読みました)
魔女 (IKKI COMIX)

魔女 (IKKI COMIX)

魔女(2) (IKKI COMIX)

魔女(2) (IKKI COMIX)

浦沢直樹の『漫勉』シリーズ2は、萩尾望都を除けば、花沢健吾五十嵐大介古屋兎丸と、サブカル系の人にはたまらない感じのテイストのピックアップでした。この3人は、漫画というジャンルの多様性の中で総花的な選択とはいえず、ちょっと振り幅が少ないんじゃないかと思うわけですが、「漫画」をハンドクラフト・アートの方法論ととらえ、その方法論を追求する意味では、確かに興味深い作風です。
セカンド・シーズンは、漫画読みの声よりも同業漫画家(および草の根の同人漫画家)のニーズに依っているのかなあと思いました。

 そんなこんなで、五十嵐大介。僕、今まで読んだことがなかったんですけども。
 確かに巷間言われているように絵うまい。
 ムチャクチャ絵がうまい。
 それがために、デッサンに裏付けられたリアルのものを書くのに、ほとんど抵抗を感じさせない。繊細すぎる描線は、好みはあるとは思うけれど。
 そのデッサン力を踏まえて、想像上のものを提示されると、ものすごい説得力がありますな。

 ピカソは精緻なデッサン力を基礎に、世界の見方を独自な視点で歪めて絵を描いた。五十嵐大介は、絵の語法としては精緻なデッサンの論理性を保ったまま、「歪んだモノ」を書いて提示する。
 漫画の優れているところだと思う。


 魔法、というものの不思議さや、女性のもつ神秘的な部分が合わさった「魔女」というアウトサイドの存在に対し、作者でさえも、なぞめいた存在に対して深く詮索しない態度をとっている。
 それがためにあまり物語として構築的な印象をうけないが、それこそが作者の志向したことなんだと思う。

 読み終わって感じるなんとも「もわーん」とした狐につままれた感じが、諸星大二郎の印象に近い。

星野源『Yellow Dancer』

YELLOW DANCER (通常盤)

YELLOW DANCER (通常盤)

"SUN"のシングルカットがあまりにもよかったので、カラオケでも歌い出したのが2015年の夏のことだったろうか。ファズのかかった音で始まるイントロはむやみにテンションが上がった。こりゃあかっこええわいと思ってたら満を持してアルバム発売。当然初回限定版を購入。


トロンボーン吹きの端くれの私にとって、星野源はまず『Sakerock』のボーカルとしてでした。ハマケンこと浜野謙太のトロンボーンはジャズ的なイディオムではないけれども、とてもメロディアスですごくよかった。ただバンド全体としてはちょっとエッジが効きすぎていて、毎日聴くのはちょっときついかなと思ってました。すごいテンション高いトラックは、なんかヤバイクスリとかキメてんじゃない?感じがあったし。


ソロになったら『ハナレグミ』的な文脈?なのかなあ…歌詞にところどころいいところがあるけど、ハナレグミほどはグッとこないような…みたいな印象でした。最初は。

次にみたのは、広島ローカルの深夜番組で『夢の外へ』がテーマ曲になってて、これのPVが、なんとも言えない中年男(井手茂太さんというそうです)の不思議なダンスで。なんとも簡単に咀嚼できない感じを抱いていました。

あとは『地獄でなぜ悪い』の出演とか、よくみると自分の好きそうな文化圏の中で着実に地歩を進めていて。ううむあなどれないぞ星野源、と思ってましたが、その挙句に出てきたこのアルバムにはやられてしまった。もうノリノリ。

結局70-80年代のソウル、ブラックミュージックの雰囲気が私は大好きなので、もろ好みど真ん中。この祝祭感は、オザケン「LIFE」以来ですよ。

星野源オザケン、2人とも、うすい顔、体育できなさそう、女子の保護欲をそそりそうなところとか、実際多分歌は超絶うまくはないところなど、共通する雰囲気がある。(ただまあオザケンはエリート、セレブ一家であるが、星野源は八百屋の息子で売れるまで結構苦労してる違いはある)


二曲目「weekend」のホーンセクション、「地獄でなぜ悪い」のスガダイローのキレッキレのピアノが特にオススメ。

あ、あとベースがダウンタウン浜田の息子、ハマ・オカモトなんですが、これがとても気持ちいいほどよい粘りのあるグルーブを出してます。
過去オザケン的なポジションをとりそこなった存在として、私は及川光博(ミッチー)を思うのだが、彼の場合は曲とかはダンサブルなナンバーだったが、バックトラックのグルーブが足りなかったようにおもわれる。
 


土橋正『モノが少ないと快適に働ける―書類の山から解放されるミニマリズム的整理術』

ここ最近「ミニマリスト」というのも市民権を得てますけども、そういう感じの考え方の最初は「断捨離」でしたね。あれって何年くらいからだったかな?
私なんて、ミニマリストから真逆の存在で、CDも本も捨てられない。いわゆるコレクター気質で本は数万冊、CDは数千枚レベルのやつ。*1
3年前自宅を建てたときにも、4面の壁すべてを占有する書棚を有する書斎を作ってますし、CDはそれでもおさまらないので、プラスチックのケースを取り払ってCD本体と紙の部分だけ納めるやつに入れてる。それでも相当な量がある。

 というので、それ以外のモノについても、基本的に捨てられなかったんですけれども、まあ仕事場も家も雑然とすること山の如しなので、最近はとぼとぼとものを捨てているわけです。

 で、何度かこういう片付け系の本をみているのですが。

…いやあ、すっきりと片付いた書斎っていうのは羨ましいもんですね。確かにシンプルな思考とシンプルなアウトカムを目指すなら、構想空間もシンプルな方がいいのは確か。

 整理が終わったら書斎も執務室も公開できればいいなあ。

しかしここ最近の文化的な潮流では、この本にあるような書斎から発信されたような言辞が主流を占めてるだけのことかも。
例えば、澁澤龍彦の書くようなものは、こんなシンプルモダンの中では生まれっこないようにも思う。衒学的な潮流があるかもしれない。
ただ平均的な教養レベルは年々下がっているから、その手のもんが今後うけるチャンスは期待できないのかもしれないなあ。

*1:とはいえ、何度も引っ越しをして、膨れ上がる蔵書に何度か捨ててはいるんですけれども