半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『リヴァイアサン』ポール・オースター

リヴァイアサン (新潮文庫)

リヴァイアサン (新潮文庫)

ポール・オースターの、自伝のような自伝でないような小説。
主人公はサックスという自分の親友で、自分の経歴はおそらくポール・オースターそのものに近い。作家で、フランスでしばらく暮らし、アメリカに戻りお金のない中、文学活動を開始。前の奥さんとのあいだに息子がいて、再婚した相手とは娘がいてというプロフィールは本人そのもの。もっとも、作品中では主人公はピーター・アーロンという名前になっているが、頭文字を残しており、本人そのものという意志表明は明らか。

 ベンジャミン・サックスという友人と自分との関わり、それによる人生の回顧録という体裁をとっている。とってはいるが、どこからが真実で、どこからが虚構なのかがよくわからない。
 ただ、ピーター・アーロンに起こる出来事のリアリティから、単なる物語以上の迫力がこの小説にはあるわけで、奥さんと離婚し、あたらしい奥さんに出会うまでのぼろぼろになっているところとか、非常に切迫感をもって読むことになりました。
 後半からサックスはアーロンとの関わりが薄くなり、つっぱしりはじめる(この辺りはポール・オースターらしい。ポールオースターの小説は、友達がいなかったり、プライドが高いなどで友達に頼れない性格の人間が自力では解決できない問題を抱えて自爆してゆくというプロットが実に多く、とても他人事には思えないリアリティがある)が、その辺りは、正直よくわからない。
 「転落の構図」という言葉が頭に浮かぶのですけれども、インテリジェントであることとクレバーであることは多分異なるのだろうな、と漠然と思う。物事にあまりこだわりをも血すぎる場合、時としてそういう意固地さに足をとられてしまうのだろうか。
最初の妻ディーリアと夫婦との関係がうまくいっていない(妻は何も言わないが、不穏な空気が漂っている)時の描写―

危機を誘発しておいて、自分はその責任をとらずに済むような手に出る。それが彼女一流の手口だった。こうすれば、事態をおもうように動かしながらも、自分の手は汚れていないと信じていられるのだ。
 こうして私は、開かれた日記に目を落とした。ひとたびその一線を越えてしまうと、もはや後戻りはできなかった。その日のテーマが自分であることを私は見てとった。そこにあったのは、不満と愚痴の網羅的カタログ、化学実験の報告書の文体で書かれた陰々滅々たる文書だった。ディーリアは何から何までカバーしていた。私の服装に始まり、私の食べるものを経て、私の度し難い思いやりの欠如に至るまで。私は病的であり自己中心的であり、軽薄で横暴で、執念深くて怠惰で落ち着きがなかった。たとえこれらがすべて本当だったとしても、彼女の描き方はあまりに寛大さに欠けていた。その口調はあまりに意地悪だった。私は怒る気にもならなかった。ただ悲しく、うつろな、愕然とした思いを感じただけだった。最後の段落にたどり着く頃には、結論はもはや自明だった。いまさら言葉にするまでもない。「私は初めからピーターを愛してなんかいなかった」と彼女は書いていた。「愛せると思ったのがそもそもの間違いだったのだ。私たち二人の暮らしはごまかしだ。こんな生活をつづけたところで、ますますたがいを駄目にしてしまうだけだ。私たちは結婚などすべきではなかったのだ。ピーターに乗せられてしまったけれど、以来わたしはずっとその代償を払っている。あの時彼を愛していなかったし、いまも愛していない。どれだけ長く一緒に暮らしても、決して愛せないだろう」

うんうんピーター。人生はつらく長いものだね。