半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

宇和島徳洲会の腎移植、そして万波先生について

 前もって言っておきますが、僕は腎疾患の分野についてそれほど詳しくはありません。

 センセーショナルに報道された割にはネットで情報発信をしている医者の間ではあまり話題になっていないのはなぜだろうかと思っていました。ネット以外で、医者どうしが膝突き合わせて行う世間話ではホット・トピックなんですけどね。おそらく、彼の行っている行動に対して、普通の医師はある種の判断停止にならざるを得ないのではないでしょうか。

 彼自身の行っていることは、一言で言うと「適応の拡大」ということになるでしょうが、これは全国の大学や研究機関で日夜行われていることです。医学は、これまで「やっちゃいけない」ということを、着手する誰かがいて初めて進歩するものです。レベルの大小はあれ禁忌事項を踏み越えないかぎり医学は進歩しません。これは確かに一面の真理です。

 しかしそうやって禁忌事項を踏み越えられた成功事例というのは、ある段階で、必ず、医学のCommon Knowledgeの中に取り込まれます。多くの場合、それは学会や雑誌などに発表され、追認するものが出て、これまで最良と思われた治療と比較されます。そこで、優れた治療はメインストリームになる。

 多くの場合、医師は「自分ひとりだけがその治療を行っている」という状態には耐えられません。
 治療の良し悪しは所詮、統計的なものです。現時点で誰がどうみても正しい治療をしても、うまくいかない場合なんてしょっちゅうあります。しかし、患者さんにとっては、その選択が命運をわけることだってある。
 治療方法の選択に、医師は法的であれ道義的であれ責任を負う立場でありますが、その精神的な拠り所として、治療方針には可能な限りの客観的な根拠を必要とします。卑近な例では、大きな病院では、治療方針に関してはカンファレンスという名の症例検討会を行ったりするのもそうです。普通の医者は、他人の人生を左右するような選択を、自分単独で行うことに耐えられません。

 しかし万波医師は、そういう「みんな」の列から離れることに、全く恐怖心がないかのように見えます。これは我々凡医の理解を超えています。さらに理解しがたいことは、列から離れたその状態からさらに列から離れる形で持論を発展させていることです。良し悪しはともかく、その精神力は端倪すべきものです。

 それから、基本的には、日常診療と、治療行為の基準の改編というのは地続きではありません。日常診療を車の運転とすれば、治療行為の基準を変えるというのは車のATのROMを書き換えるようなものです。それは全く別の次元のものであり、頭のスイッチを切り替える必要があります。ROMを書き換えながら運転するような行為は普通の神経では耐えられないはずです。
 そもそも日常臨床に携わる医師には、ROMの書き換え権限がありません。(そのような権限はの中でも、全国的な力を持つ大学教授など一部に限られます)。

 万波医師は、日常診療の中で、極めてなだらかに基準を逸脱しています。そしてそれを学会や学術雑誌に投稿するわけでもない。私としては、この後者の方が異常に思えます。学会に発表したりするのは、功名心とかだけではなくて、自分のやっていることが他の人からみてどうかというのがわかり、安心しますから。

 しかし万波医師は、誰よりも腎臓患者をみているという自負があるはずですし、それは確かにそうでしょう。すぐれた着想はベッドサイドで生まれるものですし、いかに彼のやったことが今までの常識に照らして奇想天外であったとしても、彼のやった治療が、正しくないと断罪することは出来ない。問題はそこに至るまでのプロセスで、彼の医学的な着想自体は、我々ごときが判断するべきものではないです。
 (ただし、そのようにベッドサイドから生まれたドラスティックな治療の一つがロボトミー手術であることは我々は銘記しておくべきでしょう)

 万波医師が医療従事者の間で話題になりにくいのはなぜかという話ですが、この事件は、構造的な問題ではないからだと思います。最近の産科崩壊とか、救急医療とか、医療崩壊を象徴する一連の事件とはやや趣きが違い、この事件は、全くユニークです。医者が興味を持つのは「普通の医師が普通の医療活動をしていて、大変な目に遭う」というストーリーです。

 こういう事件は、逆にマスコミ、それもワイドショーの独壇場です。
 しかし、こういう事件を報道するマスコミの姿勢には、首尾一貫したものがありまして、この事件の報道を見ていても、報道される側の万波医師よりも、する側のマスコミのもつ構造的な欠陥が露にされているような気がします。