半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『被差別の食卓』『日本の路地を旅する』上原善広

オススメ度 100点
シリアス度 100点

被差別の食卓 (新潮新書)

被差別の食卓 (新潮新書)

最初に読んだのは、『被差別の食卓』
世界には、被差別階級というのが一定数いる(社会的にも、経済的にも)。
というところからこの本は始まるが、民族問題とか差別問題とか、その辺りはかなりアンタッチャブルでデリケート。
語るのが剣呑な話。

日本の被差別階級の人たち(オブラートにくるんで言っていますよ)の歴史的な経緯。
仏教の影響下の日本では屠畜・皮革業は死穢に満ちたものとしてタブー視された。賤業としてこれらの職業そのものが社会的には必要でありながら忌避された経緯がある。現代でも食肉業のルーツは多くはこの出身の人たち。*1

あぶらかす』『さいぼし』という、被差別階級の人たちに好まれてきた特有の食事があるけど、アメリカの黒人の「ソウルフード」っていうのも、どことなく似てやしないかな?という着眼点で作者(作者もそういう被差別の出自であったりする)は世界を旅する。
差別と貧困、迫害と団結の中で生まれた食文化には、当然のごとくに共通点がある。

・臓物料理(一般の民が食べずに捨てたり見向きもしなかった食材を工夫して作った)
・味が濃い(傷んだ食材でも食べられるような工夫と思われる)
・揚げものが多い(小骨が多くてもそのまま食べられる。ハイカロリーで腹持ちがいいから)

意外なのは我々が普通の食事と思って食ってる「フライドチキン」が、ソウルフードの最右翼だったということだ。白人が食べずに捨てていた手羽、足先・首の部分を、骨も気にせずおいしく食べられるようにディープ・フライして食べたのがルーツだそうだ。南部のディープフライされたべっとべとのフライドチキン、一度食べてみたいような気がする。

アメリカ南部の「ソウルフード」(ナマズやザリガニなども)、ブラジルのフェジョアーダ、ロマのハリネズミ料理(ロマ独特の穢れ感覚から、ハリネズミはもっとも清浄な動物とされているらしい)、インドの不可触民、サルキ(ヒンドゥーで死牛馬を扱う不可触民、これは日本の被差別問題にかなり共通点がある)…

高野秀行を一番左に据えて*2、真ん中に 辺見庸『もの食う人々』を据えたら、
この上原善広のこの作品を一番右に据えてしっくり来る、って感じだ。右にいけば行くほど政治的に考えさせられる濃度が高い。

辺境メシ ヤバそうだから食べてみた

辺境メシ ヤバそうだから食べてみた

もの食う人びと (角川文庫)

もの食う人びと (角川文庫)

ただ、取り扱っている題材が題材なだけに、ソウルフードと同様に、腹にずっしりと重い読後感があった。
それでも、食を切り口にしている分、間口も広く受け入れやすい本だとは思う。

日本の路地を旅する

日本の路地を旅する (文春文庫)

日本の路地を旅する (文春文庫)

かなり面白かったので、もう一冊読んでみた。
「路地」というのは、路地裏探訪記、みたいなナイーブな意味ではなく、被差別部落の集落のことを表すことばらしい。同和とか部落とか、そういう言葉に類する言葉なんですね。
自らも路地出身の筆者が、日本各地の路地をかなり網羅的に歩き回った記録である。
結構な分量。

なんというか、平静なよそおいで書かれてはいるが、静かな文体の中に、戸惑ったり怒ったり、落胆したりいろいろな作者の感情が透けてみえる、並並ならぬ覚悟で書かれたルポルタージュである。
冒頭に作者の生い立ちがつづられ、巻末近くで、商売に失敗し、沖縄のとある島で女と住んでいる兄と再開するくだりがある。
総花的な路地探訪とみせかけて、作者のルーツ探しのような、ビルドゥングスロマンのようでもある。
つまり、小説を読んでいるような気にさせられる。
非常にシリアスな重たい事柄を取り扱っている本だが、ある種のナラティブさが加わったことで、普遍的に受け入られらるものになっているのが、この本のいいところだと思う。愚直に現状を紹介しても、関わりのある人にしか読まれず、社会運動にはならない。

太宰治の『津軽』よりは切迫感があると思った。

津軽 (新潮文庫)

津軽 (新潮文庫)

同和対策法案が期限切れになって、21世紀になって久しいわけで、いわゆる都市化されたところで暮らしている分には我々はこのような差別問題に触れることはあまりない。そして、21世紀、幸いなことに被差別部落の問題は、大都市など人口流動が大きい地域では、風化しつつあるのも事実だ。
難しいのは被差別部落そのものが風化してしまい、忘れられることは、被差別問題としてはいいことである反面、やはり少なからぬ人のルーツや文化が消えていくことでもある。その辺りのアンビバレンツな感情も、この本の持ち味であると思った。

* * *

実は、医者って、尊敬される「聖職」といわれるカテゴリーに属しているけど、特に前近代は、現代のような医学の発達もなく、病気を治す力はあまり期待できなかった。看取りは医師が行う。
だから、医師という職業も同様に死穢に満ちていると思う。

死牛馬と何が違うのか。
何百枚も死亡診断書を書いてきた自分の手も、死穢に満ちていると、実は感じている。

どうして医者が賤業として取り扱われなかったのだろうか。
実は前前から疑問に思っているのだ。

もちろん、現代においての治療職能集団としての医師はそういう存在とは程遠い。
でも、江戸時代には、医師は僧形であったし、死に日常的に触れる、特殊な職業であったわけだ。

医師が被差別部落の特定の賤業として取り扱われる世界線もありえたのではないかな、と、僕は自分の仕事を振り返って思うのだ。

*1:細かいことをいうと、江戸時代に制度化されたエタ・非人はエタは皮革・屠畜業など固定化され排除されたカーストであり、非人はまた完全なアウトサイダーを含んでいたり、この二者もまた細かく見ればかなり違う。ただ、その辺りの細かい話は掘れば掘るほどデリケートな話題なので、これ以上は触れない。

*2:この左・右はイデオロギーのやつじゃないです