半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『寡黙なる巨人 (集英社文庫)』多田富雄

寡黙なる巨人 (集英社文庫)

寡黙なる巨人 (集英社文庫)

寡黙なる巨人(単行本)
多田富雄というと、僕でもしっている免疫学の超有名な研究者です。
 よくしらなかったんですが、能などに対する造詣も深い教養人でもあったのですね。

 奥様も内科医で、さあこれからリタイヤ、好きなこともやるべえという矢先の67歳、脳梗塞にて右半身麻痺になってしまう。

 正直に言って、よくある話といえばよくある話ではある。
 でも、この人はそこからなんとかリハビリを必死で行い、いままで使ったことがないワープロを駆使して、文筆活動を行うほどにまでになった。この本は、その脳梗塞になった顛末の回想録である。

 これと比べるレベルではないが、私も先日車にはねられて、HCUにかつぎこまれ、身動きもほとんどできない状態に陥った(一時的にだが)ので、この喪失の感覚に深く共感するところがあった。なんか、そういう時にはそういう本が目に付くのである。恋をしている時は恋愛小説に目が向く。怪我をしているときには怪我・病気小説に目が向くものだ。

 幸い、今回私はただの怪我だったが、この人のようなことになる日は、いつか来るだろう。
 人はいつか死ぬわけだが、必ずしもキレイに死ねるわけでもないということなのだ。
 PPK(ピンピンコロリ)とはいえ、なかなか全員がピンピンコロリを達成できるわけでもない。
 
 おそらく麻痺で、体内に醸成される言葉に比して、アウトプットが極端に制限されている状態だからだろう、紡がれている言葉は余分がほとんどなく、極度に整理されていて、美しい。
 怪我しなければこの本を手にとることもなかっただろうが、いい経験をさせてもらった。

 病気になって、あれよあれよと急転する事態に翻弄された多田先生が、置かれた運命に対して反撃を開始する(これはまた、一つの受容であるとも言えるが)くだり、以下のごとくである。

そのとき突然ひらめいたことがあった。それは電撃のように私の脳を駆け巡った。昨夜、右足の親指とともに何かが私の中でピクリと動いたようだった。
 私の手足の麻痺が、脳の神経細胞の死によるもので、決してもとに戻ることはないくらいのことは、よく理解していた。麻痺とともに何かが消え去るのだ。普通の意味で回復なんてありえない。神経細胞の再生科学は今進んでいる先端医療の一つであるが、まだ臨床医学に応用されるまでは進んでいない。神経細胞が死んだら再生することなんかありえない。
 もし機能が回復するとしたら、元通りに神経が再生したからではない。それは新たに創りだされるものだ。

 寡黙で鈍重な「新しい」「私」― 多田のいう「巨人」が、表題になっている。