半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

村上春樹『海辺のカフカ』

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)

いやぁ、文庫本が出て、いまさらのようですが、没入して一気に読了してしまいました。

素朴な感想を言うと、いつもの村上作品のようでもあるし、少し毛色が変わったようでもある。みなの意見も様々。肯定的・否定的な意見もさまざまである。

しかし、僕が読んだ限りにおいては、たとえば青い絵の具を多用して描いていた画家が他の色も使うようになった程度の変化ではないかと思う。もちろん作品そのもののトーンはぐっと変わってくるものの、画家の本質的な筆致は、あまり変わりがない。

メタフォリカルな小道具は、今回は以前の『鼠と僕』の三部作と異なっているし、登場人物のプロファイルもやや幅を増しているように見えるが、やはり基本的な物語構造は同じだ。


村上作品に寄せられる感想で、もっともくだらなく、かつ多いのが「物語が中途半端に終わる」「最後らへんがわけわからん」というものである(あちこちのカスタマーレビューを読んでごらん)。
実際、長編作品のほとんどは導入部からストーリーがぐいぐいと展開するものが多い。いわゆるドラマのプロットはよく練られ、読者を飽きさせず、ぐいぐいと物語世界に引きずり込む。こうした部分だけをとっても他の作家と比べても村上氏が優れたストーリーテラーであることが窺える。
だが、村上氏は、後半部に入ると、こうした物語的な流れを止めてしまう。(一番あからさまなのは『羊を巡る冒険』であるが、どの作品も多かれ少なかれ停滞する部分が作られている)その停滞を「中だるみ」ととると、上記のような否定的な評価につながるのではないかと思うが、これだけ前半でぐいぐいと流れる展開を書ける人間が、息切れするわけはない。明らかにこれは意図的にやっていることだ。意識的に物語を止めている。

 そして、そこで必ず氏にとって重要と思われることが語られる。
村上氏の小説形式においては、前半部のスピード感あるストーリー展開はその後の導入に過ぎないのだ。ドラマツルギーを至上とする人にとっては、こういう風に優れたドラマを書く人間が、なおかつドラマを第一としない書き方をすることが許せないに違いない。
 しかしこのやり方は村上作品にとっては定式化されてしまったもので、今回の話も例外ではない。後半部に必ず訪れる奇妙な停滞、そしてそこで語られる物理法則を越えた何か。(しかし、いわゆる霊の世界とか、そういう単純なものでもない。「あちらの世界」は、いわゆる丹波哲郎大霊界のような簡単なものではない。)。

 今のところ村上氏はこうした形式を年月を経るごとに強固なものにしているが、新作が出るたびに「ドラマツルギーとしては破綻している、失速している」と言われ続けるのであろう。



 これは全くの勘だが、村上春樹の物語形式というのはある種『能楽』に似ている。
 生者と死者の境界が曖昧になる場所で、生者は死者とふれあう。

能だって、今でこそ伝統芸能として一つのジャンルを為しているが、もとは観阿弥世阿弥によって作り出されたパーソナルな物語形式であったのだから。

 (村上春樹と能についての関連は、きっと誰かが言っているんだろうと思う。僕が考えるようなことはどうせ誰かが考えついているのだ。)

 、ま、どうあれ、楽しめましたが、村上氏の作品を熟知していたところで、村上氏の考えているようには世界をとらえていない私にとっては、氏の作品群は、魅力的ではあるが、未だ飲み下せない事物として私の中に残り続ける。保留物件。医学とか、あまりにソリッドなものの見方を強要される世界に住み続けたせいかもしれない。


 それから、登場人物の中ではやや異色のホシノさんであるが、彼には、村上世界の中で生まれ育った形跡が驚くほど希薄だ。
 彼に関しては「一般読者村上世界体験ツアー」みたいに思うと、極めて理解しやすいのではないかと思う。村上世界にご招待、つまりはいわゆる読者サービスととらえるとよろしい。