半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

Larry Carlton "Firewire"

ファイアワイヤー

ファイアワイヤー

 ちょっと上の世代の人に欽ドコ時代のことで盛り上がられてもいまひとつついていけないのと同様(自分は1974年生)、僕はLarry Carltonの全盛期をよく知らない。年配の知人がラリー・カールトンドナルド・フェイゲンを熱く語っていても、どうもぴんとこないし、その人ほどは没入できないのです。

夜の彷徨(さまよい)名盤ではあるので「夜の彷徨い」などは持っていますが、これも社会人になってから買ったもの。聴き方としては後づけで、「感じた」ではなくて「知った」みたいな聴き方になってしまう。多感な青春時代に触れてこそ、心にHybridizationするものは往々にしてあります。残念ながらLarry Carltonは僕にとってはそうではなかった。

 でもまあ、あの頃のラリーのスタイルは今聴いてもきらいではない。でも実は知人に青春時代ラリー・カールトンあたりにどっぷりはまったギタリストがいるのですが、その人の事が僕はあまり好きではないもんだから、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の、袈裟、のような作用を及ぼしてしまうのです。ラリー・カールトン、とんだとばっちり。

 それはともかくとしてこのCDは中古屋で購入してみました。

 一聴して、「夜の彷徨い」などにみられた軽やかさが全くなくなっているのに驚きました。
 もうそれこそ、全く別人かと。

 「夜の彷徨い」のラリーは、言うなればBopに近いようなフレーズ速弾きタイプで、どちらかというと軽めの音色で、脳と指先との間の電気抵抗がゼロであるかのような軽やかなフレージングが持ち味であったかのようなので。

 このアルバムでのソロはそういう路線とは全く違っていて、ごりっ、ごりっ、とした音色で、ソロもどちらかというとフレーズ弾きではなくコードストロークを多用。どっしりとしている。例えばレイ・ブラウンのベースのソロと同じで、重い楽器をとり回した者だけに表現できる「重み」があるわけです。

 へーえ、こんな風に変ったんだ、とその時は漫然と思っていたんですが、後で調べてみるとラリーカールトンは、あの全盛期の直後に銃で撃たれて、楽器の弾けない状態になっていたらしいですな。必死のリハビリの末カムバックした、と。

 それならあのスタイルの変遷にも納得がいく。軽やかに楽器を弾ける人が重みを出すのは大変難しいことなのです。

 でもそういう「撃たれて再起不能!奇跡のカムバック!」みたいな人生波瀾万丈伝のような余計な情報を付与した聴き方は、我ながらいかにも日本人らしい邪道な聴き方だと思う。そういう事前情報を省いて、サウンドのみで評価するとしかし、正直にいいまして自分にとってはあまり好きなタイプではないです。少なくとも今の自分にとっては。

 でもこういうことを書いて、昔ラリー・カールトンを聴いていた僕よりもちょっと年上の人たちが、今のラリー・カールトンを聴いてくれればなあと思います。受ける印象はそれぞれでしょうが、やはり、自分の人生の中の何かしらを投影し、何かしらの感慨を抱けると思う。ま、昔好きだった歌手や女優の老けた姿を目の当たりにするのと、ある種通じるものがあるかもしれませんが。


 ちなみに私がこれを買った理由の大半はジャケです。ラリー・カールトンがシャツ着てギター持っているだけの白黒写真なんですけれども、これがめっぽうかっこいい。格好よく年をとらなくちゃなと思いました。