半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

トニー滝谷

 僕は村上春樹の短編の中では「トニー滝谷」が一番好きなので、どうもこの映画は怖いものみたさの感があり、敬遠していたんですけれども。

 不思議な映画でした。
 緩やかに水平にパンしつづけ、決して寄らないカメラワーク。寒色の引き立つライティング。小津映画でもそうだが、確かにカメラワークというのは監督の「文体」である。これが、村上作品の中でもいささか特殊な文体を(三人称により極端に客体化された登場人物達)用いた「トニー滝谷」という問いかけに対する映画的解答なのだろう、と思った。
 そのことは、間違っていないと思う。

 しかし、監督の目はどちらかというと村上春樹の方ばっかり向いていて、観客の方への視線がお留守になっているような気もした。「文体」という特殊な枠にはめることを優先させすぎて、結果としてダイナミズムを矯めてしまっていないだろうか。なんか、そういうちょっと腑に落ちない感じがあった。そういう「居心地の悪さ」こそが監督の意図なのだ、といわれると、それはもう何も言い返せないし、我々観客がそもそも、村上春樹の方を見ている監督の一挙一動を見たいというのもある。

 宮沢りえはとてもよい。しかし二人の女性の二役を兼務するのは、意味が全く違ってしまうのではないかと思いました。あれでは、なんか二人の間の永遠の愛とか、そういう意味が出てきてしまうような気がするんである。あそこは、どうしても別の人間でなくてはならぬ。後になって出てくる人は、葉月理緒奈とか、どうか。
 そもそも後半の女性は、綺麗な服が似合う必要は、必ずしもないのである。

 観る前は、省三郎の音楽である古いジャズが劇中音楽にも使われると思っていたのだが、実際は硬質なピアノ曲で(坂本龍一らしい)、これは非常によかった。
 しかし、個人的にはジャズ・トロンボニストである父の演奏はいただけない(これもイッセー尾形だが)。演奏のイメージも、ジャック・ティーガーデンのようなシルキーな音色の中間派ジャズではないかと思うのだが、なんかガビガビしてた。音の出し方が、僕のイメージと全く違っていた。こればっかりは自分もジャズトロンボニストなだけに、ちょっと譲れない。
 そもそもの人物造形が、父はもっとハンサムな外胚葉型人間のはずで、その陰影のなさがトニー滝谷との対比となっているはずである。
 「それはちょっと違うんじゃないか、父さん」と言いたくなったよ。
 そもそも、吹いてなかったし。