半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

映画を早送りで観る人たち

話題になっていたから、読んでみた。

最近の若い子は映画を倍速でみるらしいぜ、というのはなんか聞いたことがあった。
実際、私も仕事に関する医療系や医療経営系の動画は、だいたい早送り。Youtube動画でも、しゃべりが中心のものはだいたい早送り。
ただ、音楽の部分は早送りにはしない、それは僕が音楽好きだからだと思う。

ところが、ふと気づくと、エンタメ業界の消費のあり方はとんでもないことになっていた。
・倍速視聴にすると、作品の滋味を半分も味わえないのは確か。
・しかし、そもそも作品が多すぎる。一人の人間が観ることのできる限界をこえている
・現在のエンタメは視聴者の可処分時間を奪い合っている
コスパ、タイパを求める人が増えた
・オタク・マニアは尊敬の対象にさえなるが、しかし何千時間も費やして鑑賞力を磨き、博識になり、生涯の傑作に出会い…というプロセス(回り道)は嫌う
・若者はなぜオタクに憧れるのか。彼らが受けてきた「個性的でなければいけない」という世間からの圧が厳然と存在するから
・つまり作品を鑑賞するという姿勢よりも「消費」する形をとらざるをえない
・しかし倍速で視聴される対策として、セリフですべてを説明する映像作品が増えた
・暗示や仮託は、10秒とばしや倍速では汲み取れない
・しかし物語が説明過多だと視聴者の思考がとまる

観客には誤読の自由がある。観客がどう観ようが観客の勝手。一定以上の規模を有した商業作品である以上、つまり相応のビジネスサイズとマネーメイキング機能を求められているプロジェクトである以上、あらゆるリテラシーレベルの観客が満足するものを作らなければならなくなった。


・人はタダで手に入れたものを大切に扱わない
・若者のあいだで、仲間との話題に乗れることが昔とは比べ物にならないほど重要になっている(共感強制力)
・映像作品をコミュニケーションツールとして使っている
・つながっている友達が多すぎるゆえのTo Do過多に悩まされている若者の方が多数派
・「多様性を認め、個性を尊重しあう」他人に干渉しない。すなわち批判もダメ出しもしないし、されることもない。これは一見して「他者」を尊重しているように見えるが(中略)単に関わり合いを避けているだけ

コスパ重視の人たちは、とにかく無駄撃ちを嫌う
・そもそも新しいものを観るのは体力がいる
・普段から本を読まない人ほど、「この一冊で、ことの本質を言い切った」系の本が大好き
・フィルターバブル(自分の考えを補強してくれる物語や言説だけを求め、ただただそれを強化することになる)
・映画の評論本が売れない。作品を体系的に見る習慣をもたない。コスパ重視傾向の若者が増えたから。
・リキッド消費

* * *

著者の稲田豊史さんは私と同年。
本の論調の最初は「映画を早送りで観るなんて…」というジェネレーションギャップを慨嘆する感想だっが、Z世代の行動様式を掘り下げるにつれて「なるほど、映像を倍速でみなきゃいけない背景があるんだ。」と理解するようになるのは面白い。

そもそも我々の世代だって、本来は劇場で一期一会でしか観られないはずの映画を自宅でDVDで鑑賞するという形で、十分堕落したわけである。
『本来あるべき姿』でしか観ないという原理主義から言えば、我々だって同罪。
その延長線上に倍速視聴がある。一応はハラ落ち(納得)はする。
ただ、やはり生理的には違和感はありますけどね。

私は割とダメ映画が好き。
例えばブルースリーの『ドラゴンへの道』とか大好き。

全然イタリア語しゃべれないブルースリーが空港でまごまごする。
レストランに入って、あてずっぽうで適当に注文したら、スープが5皿出てきて、一人で黙々とスープ食うシーンで、冒頭5分くらい費やしてるんですよ。今だったらありえないし、おそらく当時でさえハリウッドならばっさりカット。
ああいう空気感を楽しむ、ということはもう若者にはないのかもしれない。
映画『八甲田山』なんて、倍速視聴でも遅すぎる。なるほど勧めても受け入れられないわけだわ。

私、どうでもいい田舎のどうでもいい道をひたすら歩くのが好きなんですけど、多分こういう行動もタイパ悪い、前時代の遺物なんだろうな。