仏教というのはなにか。
『仏教』というのを読み解く際に、日本の仏教研究では、
仏教の長い歴史の中で、新しい考え方や流派がたくさん出てきた結果、今までの流れを踏まえて論じるのが当たり前だ。
創始者のブッダの言説や哲学というものがないがしろにされていないか。
「ちょっと待て、それほんとにブッダが言ったことですか?」
みんな「俺の考えた最強の仏教」みたいなものを言い募るけど、そもそもブッダの生涯の中でブッダが考えたこと、述べたこと、反対に述べていないこと、というのは議論の前提としておかなきゃいけないんじゃないですかね。というのが筆者の主張。
ブッダの言説をまとめた本。
私は仏教を体系的に学んだわけではないので、この本のラディカルさを心の底から味わえるわけではないのだけれど、
まあ日本における仏教論争って、正確にいえる「ブッディズム」とはだいぶ違うよな、ということはまあわかる。
結論としては、ブッダは、神秘的なものを極力配した合理主義者であった。
どちらかというと、哲学家、それも実践哲学家であったという結論。
面白いが、そういうわりと合理的な哲学体系が、まわりまわって、わけのわからない密教みたいなものになったり、人情をいいつのる大乗仏教みたいになるのが、人の世の面白さ(不合理さ)とでもいうべきものだろう。
仏教は、はるか昔に口伝で再構成されているので、今のアカデミアのように、昔の経典とその注釈が明確に残っているわけではないんだけれども、しかし、その思想的推移をみてゆくと、オリジナルはまああらわになるわけで、エビデンスに忠実にやりませんか、というやつだと思う。
以下備忘録:
・篤信家は強固な信に基づき、みずからの信にふさわしい正しい仏教であるという態度で仏教に接する。みずからの信念に合致しない要素を仏典のなかに発見すると、その仏典は「正しい仏教」を説いていないと断定し、刈り込みと称して、そうしたものをバタバタと切り捨てようとする。
・仏典を精読すれば「きわめて首尾一貫した体系」があることがわかる
・「最初の仏教」が驚くべき完成度をもっている
・近代仏教学の担い手はかならずしも「正しい仏教徒」ばかりではないということになった(明治時代になると仏教学は、近代仏教学と宗学に分裂)
・仏教は本来輪廻思想を否定するものだったという考えは日本の知識人たちの頭に深く刻み込まれ、今日に至っている。が、修行を完成したために、ついに輪廻転生からの最終的な解脱にいたった、という宣言なのであり、輪廻思想を前提としなければありえない内容
・輪廻思想が成立してこそ、解脱へのあこがれが生まれ、出家という独特の生活形態をもつ一群の人々が登場するようになるから。
・マヌ法典の四人生期説「学生期」「家住期」「林棲期」「遊行期」
・ゴータマ・ブッダが発見した真理の核心は、苦である輪廻的な生存を引き起こす究極の原因は根本的な生存欲であり、それを滅ぼすものは知恵(如実知見)であり、そのためには輪廻的な生存にまつわるあらゆる経験的な事実が構成している因果関係の鎖を徹底的に観察、考察しなければならない(十二因縁観、四聖諦説)。独創性を補完するものが無常観、その無常観をさらに補完するものが非我観。
・ゴータマ・ブッダはある種の質問には沈黙して答えなかった(理屈のための理屈、論争の無意味さ、水掛け論争の無意味さから)
・形而上学的な哲学論議を否定し、経験論的な領域以外の論争を弟子たちにも禁じた
参考
halfboileddoc.hatenablog.com
内田樹氏とお坊様の釈先生との対談。
内田氏は、洞察力はすぐれた賢人であると思いますが、ある一定の思想やエビデンスに沿って堅牢な議論や主張を行うわけではなくて、確かに、ライフワークの合気道というのにも似て、ふわりと対象物を異なる視点の切り口で見るのが得意な方。対談の相手もそのような方で、ふうわりふうわりと霊性というふうわりとしたものに対してああでもないこうでもないと言っている対談。
まさに、ルーツを押さえずに仏教を語るという宮元氏が批判しているやつそのものの議論がここでは展開されている。
しょうがないよね、だってこれ「霊性論」だもの。
ブッダは霊性なんていうものには触れていないわけだから。
ヘッセ『ブッダ』
なんとなく読んで、なんとなくふーんと咸興があったが、今ひとつ人にいえるような感想ではなかったので、Blogにも書かなかった。これ、何年前に読んだんだっけ。日本でゴータマ・シッダールタの生涯を概観したければ、とりあえずこれ、なんだろうか。
まあこれは手塚哲学みたいなものに相当侵食されている。戦争で死を覚悟した柔弱な文学少年のニヒリズムは、ブッダのそれと重ならないでもない気もするが、ま、それはやはり同じではないと思う。
ただ、若い頃に読んだ時は、おっぱいがとにかくいっぱい出てきて集中できなかった記憶しかない。