半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『減速して自由に生きる ダウンシフターズ』高坂勝

会社員をやったけど、やめて、ちょっといろいろフラフラして飲み屋をやった人の話。

飲み屋なんて、なかなか生き残っていくのが難しい業界。客単価とテナント料と回転と……みたいな話だけど、過剰に欲をかかないで落ち着いてやっていける分と考えたら、案外難しいことはないよという話。

一般論を語っている本なんだと思って読んでみたら、徹底的に個人史であった。
ただそういうナラティブな本の方が、得心はいくと思う。

出版は2010年なので、この手の考え方でいえば、すでに古典化している本だと思う。

作者は1970年生まれで、自分とほぼ同年代であり、世の中の価値基準の変遷も共感できるところが大きい。
私はこのひとのように思い切った生活の切り替えをしておらず、欲と物にまみれたバブル時代から完全に背を向けた生活もしておらず、効率化・収益化を二の次として満足度に価値を置く生活もしていない企業人である。
しかし、バブル、就職氷河期、ロスジェネ、リーマンショック東日本大震災とか、そういう変化を通じて、自分のありようや生き方に疑問を感じることも多々あったし、今や世界全体がSDGsなんていっちゃって経済最先端の人たちが一周回ってこういう考え方を取り入れなければやっていけないようになった、ということは非常に面白い。

・道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である(二宮尊徳
・もう頑張らなくていい。もう無理しなくていい。もう嫌なことをしなくていい。もう親の期待にこたえなくていい。もう雇われなくていい。もう評価されなくていい。もう急がなくていい。もう大きくならなくていい。もう儲けなくていい。もう効率化しなくてもいい。もう経済成長しなくてもいい。そして、たくさん悩んだっていい。悩みを楽しめばいい。

深く頷けるところもあり、人間の幸福度という意味では、これこそが真実なのかも。と思ったりもする。

ただ、すべての社会成員が、こういう生き方が許容されるのか、というと、それはわからない。
ただ、例えば、インドの沙門のように、どの時代のどの社会であっても、生産性から離れて思索に耽る集団というものは存在している。
例えば近代では「高等遊民」と言われるような半分貴族階級のような存在が、科学(ダーウィン)、芸術、哲学を推し進めてきたという現実がある。
全員がダウンシフターズになった時に、果たして社会というものは維持しうるのか、ということは考えてみないといけないんじゃないかとは思う。額に汗して普通に働いている人たちがいてこそダウンシフターズというのは成り立つのか、それとも社会全体がダウンシフトして幸福に生きることは本当に可能なのか。
どっちなんだろう。
誰か偉い経済学の先生が立証してくれたらいいのに、と思う。

参考

halfboileddoc.hatenablog.com
最近中国地方の田舎で焚き火キャンプとかをやっているのだが、都市化だけが成長ではないと気付かされた。思想的にはこのあたりの本がかなり思考の補助線になる。
halfboileddoc.hatenablog.com
これも都会であまり効率化を目指さない喫茶店を営む話。
利益率など商売としてはハードでサバイブしにくい飲食業界ですら、スローな生き方は可能なのだという実例として、本書も心強いとは思う。

halfboileddoc.hatenablog.com
この本はもうちょっと金っ気が強いけど、都市文明に背をむけて田舎のくらしって、気付かされるものが大きいという話。

halfboileddoc.hatenablog.com
しかし、バブル世代のありようとしてはこの桜玉吉氏のような生き方もある。いろいろあって伊豆に隠棲している玉吉氏。ダウンシフトとはいえ、人との関わりの多寡で、こんなに違うのか……と思わされる。ただ、桜玉吉氏のような絶対的な孤独の中で自然と向き合う生き方にも、惹かれるものはあるが、自分はそんな強さはないなあと思ったりもした。