半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『ケーキの切れない非行少年たち』

オススメ度 80点
割と「不都合な真実」含まれている度 90点

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)


「不良」という言葉は、昭和の世代にとっては 素行不良という意味だと思っていたが、
この本を読む限り、不良=ポンコツ と言う、本来の工業用語だったのかもしれないな、と思い直してしまうほどの衝撃があった。

要するに「不良」は、体制反逆者か、社会不適合者の方が真実なのか、ということ。
もちろん、その二つの要素が混在しているのだろうとは思う。
70年代から80年代には、「不良」という言葉は「体制反逆。まあ社会不適合みたいな要素もあるけどね」みたいなストーリーを社会は文脈として受け取っていたように思う。
これは、戦前の共産主義活動、ブルジョア階級の知的エリートが共産主義に共鳴し社会の低層に潜っていった歴史的文脈(この人たちは、体制反逆者だった)を想起させる効果があったからなのじゃないかと思う。

だけど、現実は、社会不適合が前面にあり、受け入られるストーリーとしてこうした体制反逆を語っている可能性はある。
体制反逆心というものは、誰の心にでもあるはずだからだ。
僕にだってある。

でも現実は、そんなストーリではないようだ。
要するに、知的に問題がある一群が、少年犯罪を引き起こしている。
犯罪のバックグラウンドは、社会に対する反抗、みたいな階級主義的なものではなくて、個人の能力的な不全感とフラストレーションであって、そこには発達障害のような要素が多分にある。ということがこの本の趣旨だ。

* * *

だから、解決方法は「反省」や「悔悛」ではなくて、社会で適応できるための、スキルをつけさせること、である。
という主張は、なるほどとは思う。
しかし、因果応報主義というか、目には目を主義の考えから解き放つのはなかなかむずかしいんだろうなあ、とも思った。
システム論としてみると、少年犯罪者を無くし、減らすためには、厳罰ではなくて、社会適応させるための訓練であろう、というのは容易に理解できる。ただ、SNSも蔓延する非寛容な現在の社会では「犯罪を犯した人間が『のうのうと』普通のくらしを享受している」ことに対して、ものすごく風当たりが強い。
むしろ最近は、人が裁かれるのは、司法において、はなく、マスコミとSNSなのだ。
 そこでは、一度犯した罪は二度と消えることがない。

じゃあ、犯罪者は全員死刑にするの?それも現実的ではないけど「善良な市井人」は自分に関係がないし、本音ではそうあれかし、と思ってさえいる。

なんすかね、戸籍とか名前とかリセットして再デビューする仕組みを作りませんかね。