半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『大家さんと僕 これから』

オススメ度 90点
ほろり度 100点

大家さんと僕 これから

大家さんと僕 これから

halfboileddoc.hatenablog.com

ヒットした前作はおおよそ一年前に読んでいたのだよな。
大家さんも結構なお年で、漫画中で二度目の骨折をしてまた入院。
そして、だんだんフレイルで、ADLも落ち、食事もとれなくなり、遂にお亡くなりになられる。

前作でも、ご高齢な大家さんは「自分はもういつ死ぬかもわからないのだから」という、死を身近に感じつつ、しかし案外元気でしたたか、というところにペーソスとおかしみがあった。
本当に亡くなられてしまう、となると、これはもう全くシリアスな話である。

それを見守るしかない矢部の筆致は、あくまで優しく、切ない。
あくまで、ご本人の元気な時の様子を踏まえて、暖かく描かれる死の前後の描写は、グッと胸にせまるものがあった。前作での試行錯誤と蓄積があるので、こういう大きく場面が展開するところでも、筆がブレないのはすばらしいと思った。

* * *

私も、地域密着の医療をしていて、特養など介護施設を持っていて、看取りも日常的にしている。

あくまで医療というフレームという目で見ると、90前の老年の女性が、何度か骨折し寝たきりになり、最後は食事がとれなくなり、亡くなる。
そういう、よくある話にすぎない。
でも、その背景にある人生を透かしてみると、こういう感情を揺さぶられるストーリーは、誰にでもあるのだ。

ナラティブ・メディスンという言葉があるが、我々はやはり人間らしくあるために「ストーリー」を必要とする。

患者さんを看取る時に、医療者としては、経管栄養をしますかしませんか?
とかそういう生々しい選択を家族の人にしてもらう。
家族の人も決め切らないことがよくある。
確信を持って胃瘻などはオススメしないことが多いのだが、それでも「少しでも長く生きて欲しい」という風に家族が思っていて、それゆえに「胃瘻をしなければ死ぬ」という字義に悩む家族も多い。

実は、こういう時に、今の現状をどんなに詳しく伝えても、医療の知識をどんなに正確に伝えたとしても、結論はでない(でるとすれば、それは医療者が押し切っているだけだと思う)。

ヒキのテクニックとしては「ところで、このXXさんは、どういう人だったん?」という話にそらす。
家族に聴いて、ひとしきり家族にこの人のことを紹介してもらう。
最初は、職業とか生地とかそういう事実。
それから、家族、関係性、性格、趣味嗜好など、その人の人となりがわかるような事を掘り下げてゆく。
そういう作業をしてゆくと、どっかで、その人の人生観がほの見えるような言にぶつかる*1
家族に愛されている人であれば、その人が1日でも長く生きることを家族は選択しがちだが、結果としてその人を苦しめることになる。


過去のその人の言動や考え方を掘り起こして、家族の中に生き続けるその人との対話をうながすと、今ものも言えなくなっているその人の考えを代弁してくれる。
時間はかかるけど、そういう丁寧な作業をすることが、人を人としてケアすることだと思うのだ。

んで、そういうストーリーが見えると、医療従事者も「XX号室の患者さん」じゃなくて、「長らく造園業を営んでいて、週に一度シュークリームを食べるのが何よりも好きだった山田さん」になる。

アウシュビッツ収容所では名前を剥ぎ取られて番号だけを与えられ、モノ扱いされた。
 それと逆のことをしなきゃいけない。

* * *

カラテカも、相方は反社の人とか闇営業がらみでなんか大変だけど、矢部はぼちぼちがんばればいいと思う。

*1:ぶつからない時もあるけど、その時にはその時なりのテクニックはある