半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

オーソン・スコット・カード『エンダーのゲーム』

時々往年のハヤカワ文庫の名作を読むのです。なぜなら面白いから。
死ぬまでに読もうというSF小説がいくつかあるのですが、ひょっとしたらSFというジャンル自体が、僕の寿命よりも短く終わってしまうかもしれないというのが最近の悩みです。今のうちに積んどかなきゃいけないだろうか。
そんなこと、昔には想像もしなかった。

エンダーのゲーム (ハヤカワ文庫 SF (746))

エンダーのゲーム (ハヤカワ文庫 SF (746))

 僕の本棚には青い背表紙コーナーがあるのですが、またその、嫁に白い目でみられる青い面積が増えてしまいましたが、まぁええわ(竹原)。
 以前にも書いたかもしれませんが、僕は本棚を整理するのに、背表紙の色で分けてます。結局のところ自分の本棚にある程度の本は手触りと色で覚えているので、その方が手っ取りばやい。あと、単純に見栄えがいい、忙しい時に整理に悩まなくても片付けられる、というメリットがある。そんな僕にとっては講談社現代新書の新しい装丁はクソ以外のなにものでもないです。

 で、ハヤカワの青いコーナー、一冊一冊も微妙に分厚いし、まあ場所とるんですわ。はっきりいって邪魔ですがね。

 ええと、肝腎な話の内容。

 幼い天才少年エンダーが周りの大人に利用されながら優秀な戦争指揮官になる話。

 一行でまとめるとえらい殺伐としますなあ。

 SF小説にはProphetとしての役割が多分にあると僕は思っていますが(P.K.ディックの短編にも、未来の世界に、SF作家が預言者として召還されるという話があった)、この小説は見事に現代を予言しすぎて、おそろしいほど。そういった意味では古典SFになってしまうのもむべなるかなと思いました。20年くらい前の作品ですが、今読んでも十分面白い。パーカーのフレーズを現代の時点で初めて聞いてもそれほど新鮮さを感じないように、新奇さはないかもしれない。

 大人が仕事としてやっている事象のなかには、比較的ゲームに還元しやすい要素は確かにあるわけで、現実をうまくゲームに引き写すことさえできれば、優劣をゲームとして定量することが可能になる。一旦そういう枠に落とし込むことができれば、子供であろうが、大人であろうが、強いものが強いわけだし、むしろ天才は子供から現れるだろう、というのは卓見だと思いました。
ま、しかし将棋とか、そうか。
なんかみたことある世界と思ったら、将棋か。

 将棋が、実社会の重要なことを決めているような世界ですよね。ま、いっちゃうと。



 しかし、ゲームはあなどれないよ。卑近な例でいうと、たとえば自分は医者で、胃カメラとか大腸カメラをしたり、エコーをしたりするわけですが、ああいう検査は、まんまゲームです。実際、どんなゲームを始めてもすぐシステムをつかみ順応が速い人間(いわゆる「器用」と称される)が検査の上達は早いと思います。で、我々ゲーム世代は、いくつかの「ビデオゲーム」を経験することで、新しい操作体系に順応するという点で訓練を受けている、とも言えるわけで、そのあたりは非ゲーム世代に長じているように思います。

 逆に、そういう医療検査のゲーム性を認めてしまったらいいのに、とさえ思う。たとえばオリンパス(カメラのメーカー)が監修して、大腸カメラのコンシューマーゲーム機での精巧なシミュレーターを作ったらいいのに、んで、そういうシミュレーターでとんでもなく高得点をたたき出すような奴にやらせたらいいと思うよ、大腸のカメラなんかは。医者じゃなくても、独自の資格を作ればいい。医者不足、なんだし。

 東大のラジオ波の権威、椎名先生は、ラジオ波治療「テレビゲームみたいで、面白いよ」っていってたけど、まだやってるもんな〜そんなに飽きないのかあのゲームは(関係者談)。




 あと、学生時代に親元を離れて寮生活とかしていた人には強烈におすすめ(僕は下宿だった)。あのころを思い出して、ちょっといやな気分にもなりましたよ。