半熟三昧(本とか音楽とか)

半熟ドクター(とはいえ気がつくと医師20年選手だけど)の読んだ本とか音楽とか

『結果を出し続ける人が夜やること』

ちょい一捻りの一冊。

「朝活」みたいな言葉もあるし、成功した人は往々にして「朝の時間が一番効率がいい」なんて口を揃えてますよね。

(残念ながら僕は生まれてこの方ずっと超朝型生活を続けているし、読書もほぼ書痴というレベルで習慣化しているので、この点に関してはもう伸びしろがほとんどないのが残念だ)

だから、朝の時間を大切にしよう。早起きしてこれこれやりましょう、みたいな本は沢山あるわけ。

この本は、そういう朝型生活を所与のものとした上で、じゃあ夜はどうするか、ということを問うている本。
そういう意味ではひとひねりしているけど、実はそれは僕も知りたかったことではある。

・「ただいま」と言うのは、今日一日がんばった自分に対するねぎらいの言葉(セルフトーク
・オンとオフの時間を意識しましょう。
・鏡を見て今日頑張った自分に感謝する
・うまく行かなかった日はリセットをする。寝室やベッドにマイナスの気持ちを持ち込まない。
・怒りの感情を手放す。明日の成功をイメージしながら靴を磨く
・今日決断したことを振り返る

まあ、要するに、学生時代を思い出してもらえば、予習復習ってあるじゃないですか。
夜の時間は「復習」の時間にあてましょう。みたいな話。面白いね。
多分「結果を出し続ける人が朝やること」と対になっているんじゃないかと思いますが、これもまた読んでみようかな…

『フルライフ 今日の仕事と10年先の目標と100年の人生をつなぐ時間戦略』

ちょっと話題になっていた本(僕も読みだしたきっかけは"dマガジン"にとりあげられていたから。)


自己啓発的な意味合いも強いけれど
「ビジネスマンって効率がとか、目標達成とかいうてますけど、人生そのものをきちんとみわたした方がいいんじゃないですか?」
みたいな話。

確かに社会人一年目にとってはまず一人前に仕事ができるようになるのが先決で、読む本はそういう即効性のある本になりがち。
そして、年齢が進むにつれて、いずれは「社内の人間関係をうまいことする本」とか「マネジメントをうまいことする本」とかそういう本を読んでいく。だけど基本的にはその都度その都度そのステージにおける短期的な目標に対する解決ということでこういうビジネス本は作られている。
中長期的なライフプランをどういうふうに作っていくか、というのは、案外わかりやすいものがない。

例えば結婚して子供もできて、みたいな、一般的な社会人のコースを歩む場合は、たいていその道中にある目先の課題に追いまくられて、気がついてみると社会人の半ばを終えてしまっていた……なんてことはよくある。
むしろ僕も含めて大部分の人がそうかもしれない。
結局自分の人生をどう歩むかという視点は、各人のお好みに任されていたりしがち。

そういう中長期的な「生き方」について、考えるきっかけをなるかもしれない、この本。

ビジネスマン10年目以降の人には、先達というロールモデル以外にはモデルがないのですが、そういう実例以外に、普遍的なあるべき道を示してくれるのは、珍しいと思います。
しかし文中で示されるのは、まあ、シンプルといえばシンプルすぎるシェーマ。
図式化をせずとも当たり前やん、とも思える。
しかしそれでも敢えて図式化することによって見えてくるものもある。
コロンブスの卵」的なやつです。

自分も46歳。
こういう人生全体を俯瞰するような話も、なんとなくわかるような年にはなってきました。

ただ、人生ってやつは、巻き込まれて予想外のことが起こって、一息ついてみると、駆け抜けていた……みたいなのが一番楽しいのかもしれない。人生最良のある期間を振り返ると、そのときは必死に生きているだけのような気がする。振り返るといい思い出、みたいな。
ひとかどの人物になる、とかの場合は、ハイスコアを叩き出さないといけないだろうけど、死ぬまでにひどく困窮しなければ人生成功と今の僕は思っているので、まったりと楽しむのは、それほど難しくもないのかもしれない、とは思った。
ただ、それなりにハイスコアを叩き出している人が、人生をうまく着地させるためには、この"Well-Being"みたいな概念を取り込まないと、Well-doingのままで突っ走ってしまうと客死してしまうのかもしれない。*1

以下、備忘録

*1:そういう人は結構いる

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『室町は今日もハードボイルド―日本中世のアナーキーな世界ー』

確かこれの前作なんだろうか、『世界の辺境とハードボイルド室町時代

は読んだことがある。
ソマリランドとかのいわゆる「無法地帯」での人々の行動様式と、室町時代の人々の行動様式が、結構似ているよねー、という話。
ソマリランド側の高野秀行氏の著作を追いかけている時に読んだような気がする。

これはその相方清水氏のホームグラウンド、室町時代研究の一端をわかりやすく垣間見せてくれる本。

室町時代の物語・説話集をとりあげて、その人々の行動規範とかの現代との違いを見せてくれる。

・今にも残る「お前のかあちゃんでべそ」の由来
・昔は自分の利害を守るために暴力を行使することを悪とは考えていなかった
・昔の自営業=文字通り一国一城の主だった。
・ムラ同士の確執、100年にも渡る戦争の記録

その他、人身売買・奴隷の話、ケガレの話、荘園の話など、興味深い話がいろいろ。
室町時代というのは、「網野史観」とかでも有名になったように、価値観の大きな転換期でもあり、現代の我々からは今ひとつよくわかっていないところがあるよなあと思う。

『異世界もう帰りたい』ドリヤス工場

異世界転生ものについては色々言いたいことはあるが、そういう漫画や小説が流行っていて、僕もかなり読んでいるのである。
最近は悪女転生ものもたーくさんあるよね。

そういう異世界転生ものの中で、異彩を放つのは「騎士団長島耕作」だったりするのだが、
halfboileddoc.hatenablog.com

このドリヤス工場描く「水木しげるタッチの異世界転生もの」もかなり異彩を放ち、なおかつ面白かった。

水木しげるの漫画の主人公によくいる「サラリーマン山田」然とした下山口一郎。
彼がひょんなことから、異世界に召喚されてしまったところから話は始まる。

血湧き肉躍る大冒険…というわけでもなく、ちょいコミュ障気味の下流サラリーマンの視点で物語は進む。
例えば、街の食堂でラーメン的なものを食べるときに、空席の並びをやたら気にして、隣におっさんが来ないように……と念じているが、おっさんが隣に座ってしまう…というくだりだとか。
完全に、サラリーマンの日常生活をファンタジー世界に引き写しているのである。
その意味では下山口一郎は、地に足ついていて、やたら冷静かもしれない。

しかしそんな淡々とした中でも、下山口はあちこちを冒険し、いろんな人に会い、
世界の秘密が解き明かされ、やがて、大団円を迎え、下山口は現実世界に戻る。

もっさりとした水木しげる的な世界であるが、異世界譚としてなかなかよくできているとは思った。
面白いよ。ふはっ。

なんかね、主人公をめぐる周囲の世界の感情の平板な感じは、吉田戦車の作風に似ているのかもしれない。

ちなみに、ドリヤス工場

文学作品をぜんぶ水木しげるでやってるでも有名だが、これも、とても面白いのでおすすめ。
(まあ有名文学作品✕水木しげる という出オチ以上のものはないのだが)

『スウィンギンドラゴンタイガーブギ』

まあ、ジャズおじさんなので、ジャズ漫画があったらとりあえず読みます。

しかし、これは 敗戦後の音楽=ジャズってだけで、僕らが思い描いているジャズとはちょっと違うかも。
まあ戦争中いろいろな目に会い、傷をおった人たちが、それぞれ別の思いもあるけれどもバンドを組んで音楽をやる話。

敗戦後の独特の価値観の倒錯、時宜に適応しているものと適応できないもののギャップともどかしさ。
新しい時代を生きる、みずみずしい話が多いけど、まあ若者なので、主人公の女子とかも、まあ徳が低い煩悩ぶりを見せつけてくれる。(まあ戦後、徳の高い人は餓死してしまう。生きていくのにはしょうがないのかも)

そういうのが、微笑ましくもあり、げんなりする部分でもあり。

米軍キャンプにいたベースのうまい黒人が、朝鮮戦争で負傷してしまうくだりなんかは、なかなかの無情感。

* * *

今のコロナ禍。
塹壕戦のような不自由さが生活についてまわる僕らは、「別の世界」の描写に過度にコミットしてしまうのかもしれない。
それに、この生活の変化に対する適応と不適応とかも、我々が試されているのも、これはこれで戦後の過渡期に重なるところがある。

最近思うけど、ジャズのクオリティとかそういうのも大事だけど、みんなで音楽という成果物を作り上げて、「合わせる」ところに、価値があるのかもしれないなあと思ったりする。…とか自分が思うのは、やはりコロナ禍の分断で、孤独感を感じているからかもしれない。

『孤独のグルメ』漫画版とTV版は 独白の偏差値がことなる

最近、アマプラで『孤独のグルメ』を延々とみている。

団塊ジュニア世代でSPA!愛読者だった、といえばまあステレオタイプだと思うが、不定期連載の孤独のグルメは読んでいた。
谷口ジローの画力と侘び寂びの無駄遣いともいえる、アンチグルメ漫画
それだけに「食う」ということへの根源的な問いかけがあったように思う。(バブルから就職氷河期の価値転換期には一層の意義があったと思う)

とはいえ、谷口ジロー氏も鬼籍に入ってしまったし、漫画版『孤独のグルメ』は閉じた環の中に入ってしまった。
対して、ドラマ版『孤独のグルメ』はもう第8シリーズに入り、安定感も半端ない。

漫画とドラマの違いについては、いろいろ思うところもあるが、
saihate510.blog22.fc2.com
このサイトの論考に全面的に賛成する。

私が思ったことは、

  • ドラマもそう古いものではないのだが、店内喫煙だったり、ところどころに『これだから女は…』みたいな台詞があったりして、今の基準だとちょっとアウトなのかなあというコメントが初期シリーズにはあった。
  • ドラマ第一シリーズでは、まあまあ原作のセリフ回しに近いような言い方を主人公松重さんもしていたが、第三シリーズの途中くらいから、松重さんがアテレコで吹き込んでいる心中の独白、原作に寄せるのをやめて、ドラマ版ならではの独白台詞にかわったような気がする。端的にいうと、ちょっとでも文学的な感じをやめて、思っていることをフランクにしゃべるスタイルにかわった。口さがなくいうと、喋りの「偏差値」がさがった。「うまし」とかの特徴のある台詞回しも増えたし、ダジャレも増えた。

 表面上は無口で寡黙なおじさん、しかし内面ではしゃべりまくっているという感じになって、原作の持つ「孤独感」の若干ネガティブな感じは消えて、あくまで「お一人様」を楽しむ小心者のおじさん、という風なキャラになった。

 でも、ドラマで続けてゆくにはその方が良かったんだと思う。
 良くも悪くもこういう風に「型」が決まって、ドラマとしては安定した。

 地元のなんでもない食堂に脚光を当てる、という意味では、ドラマ版『孤独のグルメ』の意味合いも大きいと思う。
 それにしても、谷口ジローの描写はおおよそ漫画の定型ではなく、リアリズムを志向していたのに、ドラマ版の松重氏の演技には漫符的な表現が横溢
しているのは、おもしろいことだ。そういう意味では「食の軍師」のドラマ化なんじゃないかと言いたくなる気持ちもある。

漫画『ファブル』がいろいろと面白かった。

映画『ファブル2』公開の番宣もかねて、メディアミックスといいますか、TVでも前作『ファブル』の再放送があり、SNSにも宣伝をあちこちで見かけた。

それをきっかけで読んだ漫画版が存外に面白く、あれよあれよと22巻まで一気読み。
「ナニワトモアレ」は割と苦手で、この作者の漫画を敬遠していた。
ファブルの主人公もリーゼント風の細眉だから、同じテイストかと思ってた。
食わず嫌いに後悔。

常人離れした能力を持ち、冷静沈着で、感情の揺れもほとんどない天然で天才的な殺し屋が主人公。
この主人公がとある事情で大阪のとある街に、一般人として(殺しを全く行うことなく)潜伏して暮らすところから物語が始まる。

筋書きや、主人公の魅力もさることながら、端々のディテールが面白く、くすりとさせられたりホロリとさせられたり(特に主人公のバディである「洋子」のアルコールの描写とかは、この作者ならではの味だ)
いずれにしろ、アクションありの裏社会話にしては、ファブルは異彩を放っている。

映画版のファブルは、岡田准一が主人公。
これはこれで面白い映画だとは思った。アクションもすごい頑張っていたとは思う。

ただ、漫画版は、孫子でいう「戦わずを上策とす」という感じ。戦いになっても機先を制して相手の戦力の無効化を狙う戦いをする。なので静かに戦いは終わる。
一方映画版。ド派手な大アクションは見応えがあるけれども、ド派手なアクション=乱戦に持ち込まれている時点で、それは能力が低く思えてしまう。
漫画版を素直に丁寧に映像化すると、絵的にすごく地味になってしまうから、そのバランスのとり方に制作は悩んだんだろうな。
(その意味では「よくできたアクション映画」という感じにおさまっていて、原作の異色っぷりは希薄ではあるように感じられた)